自我同一性のもつ反差異共振性について:どうして、自我主義は、差異

自我同一性のもつ反差異共振性について:どうして、自我主義は、差異に敵意をもつのか


テーマ:差異と同一性


自我同一性主義ないしは自我中心主義は、差異共振性=心を憎悪する、敵意をもつ、攻撃する、抑圧する、征服する。他者支配の衝動・情動がある。
 同一性が差異を否定することについては、さんざん述べたが、また、ここで反復することになる。差異共振性=心を否定するというのは、同一性自我にとり、それが不都合であるからである。即ち、差異共振性=心を否定して、同一性自我が形成されているからである。ここには、差異共振性への否定という暴力があるのである。差異共振性=心という共感性を否定する暴力である。
 さて、直感で捉えたことを言おう。エネルギーの問題である。自我中心主義の攻撃衝動にあるエネルギーは何だろうか。これは、否定暴力である。同一性暴力である。他者=差異を自我同一性化する暴力である。
 だから、iが-iを否定する暴力である。否、+1が+1を否定する暴力ではないだろうか。否、+1が-iを否定する暴力ではないのか。三度、否、である。+1が(+i)*(-i)を否定する暴力である。つまり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、右辺が左辺を否定する暴力である。
 宗教で言えば、自己認識方程式は多神教(太母神宗教)的である。しかるに、自我中心主義とは、一神教的である。前者は差異共振性を肯定し、後者は差異共振性を否定しているのである。
 では、後者の力学とは何だろうか。つまり、どういう風に発生するのだろうか。これは、正に、近代合理主義・近代的自我の発生を考えればいいのではないだろうか。即ち、形成された同一性自我(「コギト」)は、同一性を基盤にして思考するのである。そのとき、現前している差異共振性は異質なもの・「異物」となるのである。「差異」・他者であるが、同一性自我にとっては、それは、理解不可能のものであり、否定・排除する対象なのである。デカルトがあいまいなものを排除したのをここで想起すればいいだろう。
 即ち、同一性自我は、主体的に、同一性中心主義的に思考して、差異共振性を否定・排除して、同一性観念知を形成する。それが、近代合理主義になるのである。そして、同一性自我が近代的自我となるのである。
 では、同一性自我の主体性・主導性とはどこから発するのだろうか。これは、これまで述べたように、陽エネルギーの傾斜でいいと考えられる。即ち、+iのエネルギーである。この原同一性のエネルギーが、+1の自我に作用して、差異共振性を否定・排除・隠蔽する近代的自我を形成すると考えられよう。これが近代主義である。
 しかるに、太極の変転作用から、陽エネルギー(+iのエネルギー)が衰退して、陰エネルギー(-1のエネルギー)が賦活されることになる。そのとき、自我中心主義である近代的自我に対して、賦活された陰エネルギーが作用・作動することになる。しかしながら、近代的自我は、この陰エネルギーを正当に受容することができないのである。何故なら、陰エネルギーは、陽エネルギーが形成した自我中心主義を解体・脱構築するからである。つまり、同一性中心主義を解体して、差異共振性を復活させようとするからである。陰エネルギーを受容すると、陽エネルギーと共振して、差異共振性が生まれるからである。
 だから、近代的自我は陰エネルギー(-iのエネルギー)を排除するのである。この排除が攻撃・憎悪・敵対エネルギーになっていると思われるのである。つまり、陰エネルギーを同一性主義が否定するのであるが、そのときの反動エネルギーが攻撃・憎悪・敵対エネルギーであると考えられるのである。思うに、(+ i)*[-(-i)]⇒-1ではないだろうか。この-1が反動的な近代的自我、私がこれまで、口が酸っぱくなるほど言った狂気ではないだろうか。自我自体は+1であるが、近代的自我となると-1であろう。そして、攻撃衝動とは、-(-i)の-(-の部分、即ち、-と-との関係にあるように思われる。
 そう、ついでに言えば、ポスト・モダンとは、陰エネルギーの活性化の精神事態に対する哲学の試みであったと考えられる。しかし、同一性主義ないしは連続性の縛り・拘束が強かったため、差異共振性をもつMedia Pointに到達することができなかったのである。
 しかしながら、時代は、陰エネルギーの活性化が強化され、差異共振性がいわば自然発生するような状況になっていると考えられるのである。即ち、トランス・モダン・エラへの進展である。プラトニック・シナジー理論は、この時代を先取りし、主導する理論であると考えられるのである。