民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義

民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義のトランス・モダナイゼーションへ


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義のトランス・モダナイゼーションへ向けて


例えば、Aさん、Bさん、Cさんがいるとして、Aさんは妻子のある大工で、これこれの道具や置き場所を必要としている。Bさんはビジネスマンで、両親と妻子と暮らしている。Cさんは、市議会議員であり、妻子と暮らしている。Aさんは、大工道具の倉庫が必要で、BさんやCさんより、広いスペースが必要である。
ここで、単純に、平等原理を当てはめた場合、三者には、等しいスペースが適性であるということになるだろう。しかしながら、これは、個の差異に則していず、ある意味で公正ではない。平等であるが、非公正である。いわゆる、悪平等である。単純に見て、個々人には、差異があり、差異は質であり、必然性である。
 民主主義はこの場合、どういうことになるだろうか。平等原則に拠るなら、非公正となるのである。個の差異を無視しているのである。
 私は先に医者の場合、個々の患者に対して、平等にというか公平に医療行為を行なうといった。患者一人一人を平等に診るのだろうか。個々の患者は差異である。医師は、個々の差異に則して、診断し、治療行為をするだろう。
 個々一人一人は、何なのだろうか。同一性なのだろうか。先に述べたのは、差異的同一性としての個々の患者である。同一性とは言わば、物質体としての他者である。感覚知覚できる他者である。見ることのできる他者である。
 医者は、個々の患者を同一性と見ているのだろうか。同一性は、患者という言葉と同じである。正常な医者ならそんなことはないだろう。通常の知覚は、同一性を介して、差異を認識することである。だから、医者が患者を診療するのは、患者の差異を認識することである。だから、差異主義なのである。同一性は、媒介に過ぎないだろう。
 私は平等ではなくて、公平に言ったのはこのような意味があるからではないだろうか。もちろん、平等でもいいのであるが、平等とは、差異に則する価値観である。だから、差異的平等主義である。言い換えると、差異共立主義、差異共生主義、差異共振主義である。
 ここで民主主義の問題に返ると、平等原則とは、差異平等主義、差異共立主義、差異共生主義、差異共振主義ということにならなくてはならないのである。だから、民主政における選挙について考えると、成人に一律に選挙権を与えるということは、個々の差異価値(人格価値でもいいだろう)を基礎として、それを平等に評価して、選挙権を与えるということでなくてはならないだろう。
 しかしながら、これまで執拗に述べてきたように、近代的自我/近代合理主義とは、同一性中心主義なのであり、民主主義はこの思想においては、形式主義化・形骸化するのである。端的に言えば、近代合理主義においては、民主主義は、衆愚政治になるのである。
 結局、民主主義を正当に活かすには、トランス・モダン化が必然なのである。トランス・モダン民主主義が創造されなくてはならないのである。愚民主義からエクソダスして、トランス・モダナイゼーションへと進展する必要があるのである。
 近代主義とは、過渡期なのである。同一性と差異との争闘する過渡期なのである。同一性主義を乗り越えて、差異主義、差異平等主義、差異共立・共生・共振主義へと政治文化的に「進化」する必要があると考えられるのである。


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自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の応用:Media Point の多次元性について


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


E(超越エネルギー)=m(+ic)(-ic)⇒mc^2=+1とした場合を考えよう。これを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1に当てはめると、光速度cや質料mは、それぞれ+1となるだろう。私は何が言いたいのかと言うと、これは、一秒間における数値であるということである。時間一秒の発生において、+1が生まれるということであり、それは、Z軸の方向に+1が生起することではないか。
 とにかく、⇒+1は、光の現象を意味するだろう。視覚や眼の形成でもあるし、当然、同一性的自己(自我)と物質身体の形成でもある。正に、「光あれ」である。【もっとも、正確に言えば、同一性的自己と物質身体の形成には少しズレのようなものがあるかもしれない。しかしながら、物質身体と成長と同一性自己の成長はある意味で平行するだろう。また、さらに正確に言うと、当然ながら、誕生と成長のズレがある。】
 少し思考実験すると、⇒+1は、物理学的には、力forceの生起のように思える。いわゆる、物理学の四つの力であるが、重力はこの力で説明できないだろうか。強い力とは、(+i)*(-i)の共振力、弱い力とは、Media Point における同一性へと展開するときの力、そして、電磁気力は、Media Pointの差異共振波動の力、そして、重力は、同一性の力ではないか。
 さらに思考実験すると、⇒+1が物質現象界(光の世界)ならば、その否定として、反物質の世界として-1の世界(闇の世界)があるのではないのか。そして、Media Point を宇宙の穴(深淵)とすると、ブラックホールは、Media Pointに存する-1の世界ではないのか。そして、以前述べたが、ダークエネルギーであるが、それは、Media Pointにおける超越エネルギーと考えられるのである。ダークマターは、それに対応するような仮想される物質ではないだろうか。
 そう、光という「物質」があるなら、闇という「物質」もあるはずである。ダークマターはこの闇の「物質」のことかもしれない。だから、ダークエネルギーは複雑になる。即ち、超越エネルギーと闇の「物質」のエネルギーの両者を含むものになると考えられるのである。
 そのように見ると、Media Point とは実に不思議な領域であることが直感される。光+1と闇-1との中間領域であり、同時に、いわば、超越的光+iと超越的闇-iとの中間領域である。四元論であり、五元論である。さらに総体を考えると、六元論である。
 問題は、光と闇の中間性の意味である。比喩的に言えば、薄明twilightである。(今、ふと思ったのは、易である。虚軸において、三元性があり、実軸においても三元があり、合わせて六元で、易の六元性を構成するのではないだろうか。そう、また思いついたのは、占星術の惑星や星座であるが、それも、この内的な構造から説明できるのではないだろうか。ホロスコープを知っている人ならば、ガウス平面とよく似ていることがわかるだろう。そう、六元と言ったが、全体の中心を入れると七元となる。これは、月・水星・金星・火星・太陽・土星木星で説明できないか。では、地球をどう考えるか。これらの点は後で検討したい。)
 言い換えると、Media Point における実軸のゼロ点の意味は何かということになる。虚軸においては、差異共振が発生するのであるが、実軸では何が起こるのかということである。端的に見れば、+1と-1の関係はどうなるのか、である。これは、積ではなくて、和ではないだろうか。ならば、ゼロ、ゼロ度である。(おそらく、構造主義やポスト・モダンのゼロはこれである。)そして、無限と表象されているものである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論では、超越的高次元と見るのである。虚軸の世界・虚世界・虚界(霊界は、この世界と見るべきであろう)である。
 結局、Media Point とは、差異共振性とゼロ度とが重なっているのである。正確に言えば、即非態として重なっているのである。即非二重性である。
 冒頭の発想からずいぶんずれてしまったが、今はここで留めたい。


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Media Point を抑圧的に否定することによって生起する、近代的自我に内在する憎悪・ルサン


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


Media Point を抑圧的に否定することによって生起する、近代的自我に内在する憎悪・ルサンチマンについて


この問題の構造は解決済みであるが、端的に、この憎悪がどういう意味をもつのか考えてみたいのである。
 なにか近代的自我は、Media Point を隠蔽しようとする衝動に駆られているように見えるのである。同一性合理主義的自己(近代的自我/近代合理主義)に執着・固着・偏執するのである。端的には、病的であるが。
 そこには、また、当然ながら、Media Point 的な性質を劣位とし、同一性合理性を優位とする二項対立的価値観がある。
 平明に言えば、共感性の排除である。他者の排除である。他者に勝ち誇りたい衝動とも言えよう。
 結局、近代的自我が同一性自己に固着して、差異共振性を否定するのは、何らかの傾斜があるからである。端的に、自我像への固着による同一性主義への傾斜であろう。
 先に一神教力学について述べたことから敷延して言うなら、自我像には、超越神が反映しているのである。超越的同一性(「我在りて、在り余れる」神)である。超越神が投影されて自我像(鏡像)になっていると思われるのである。これは、倨傲であり、いわゆる、自己中心主義である。絶対的自我主義である。これは、凶暴狂暴(凶狂暴)である。見境のない、反理性的な、狂気の暴力衝動がある。
 ここで、ヤハウェ多神教自然宗教)排除・排斥を考えると、確かに、Media Point (多神教アニミズムシャーマニズム)の抑圧的否定がここにはあるのである。ということは、ヤハウェ自身において、Media Point が実存しているのであり、それを超越的同一性が否定・排除するということになる。
 ここで自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を考えると、超越神は左辺を否定・排除して、その結果、⇒+1を発生させることになるのであるが、しかしながら、その抑圧的否定は、Media Point を内包しているのである。包摂はしていないが、内包しているのである。つまり、一神教多神教を、抑圧的否定的に、内包しているのである。言い換えると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒は単に抑圧的否定だけでなく、内包を意味するのである。
 だから、この同一性志向性とは、一種の捩れであると言うことができるだろう。これが1/4回転である。左辺が1/4回転して、右辺になっているのである。【そう考えると、1/4回転は、±1を発生するのではないだろうか。即ち、(+i)*(-i)⇒±1ではないだろうか。】
 1/4回転による捩れが、抑圧的否定であり、根源的憎悪・ルサンチマンなのだと思う。
 では、この同一性狂気衝動(ヤハウェ衝動=利己主義衝動)に対して、(螺旋的)回帰はどういう力学なのだろうか。つまり、トランス・モダン=再差異共振化のことである。それは、単純にさらなる1/4回転のことではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒±1⇒(-i)*(+i)ではないだろうか。そして、1/4回転を反復すると、(+i)*(-i)⇒±1⇒(-i)*(+i)⇒±1⇒(+i)*(-i)・・・となるのでないだろうか。これこそ、永遠回帰である螺旋的回帰(二重螺旋的回帰)ではないだろうか。(もっとも、最初の1/4回転は、マイナス・プラスであるが。)簡潔にして、(+i) *(-i)⇒+1⇒(-i)*(+i)⇒+1⇒(+i)*(-i)・・・でもいいだろう。ただし、+1は、-1を内包すると言えばいいだろう。
 では、この1/4回転力学とは一体何なのだろうか。差異と同一性の反復と言えるだろう。思うに、病理的状態とは、差異と同一性のどちらかに固着することであろう。一神教、とりわけ、ユダヤキリスト教の問題は、この点にあると考えられるのである。同一性に固着しているために、差異のエネルギーを吸収することができないのである。
 では、同一性への病理的固着の力学とは何なのだろうか。自然(じねん)は、1/4回転を反復し、永遠回帰(二重螺旋的回帰)を行なうと考えられるが、それを否定する反自然(はんじねん)である同一性への固着(一神教、とりわけ、ユダヤキリスト教)とは何なのだろうか。自然への逆らいである。つまり、不自然な反動である。端的に、これは、病理態である。病気である。一神教、とりわけ、ユダヤキリスト教は病気なのである。精神病である。病気、精神病の宗教である。狂気の宗教である。狂気教である。狂教である。
 おそらく、自然におけるある種の病によって、これが生起したのである。生命体に癌細胞が生起するように、人類において、一神教、とりわけ、ユダヤキリスト教が生起したのである。一種致命的である。
 しかるに、自然は永遠回帰するので、この癌細胞は克服されると考えられるのである。再び、多神教の差異共振性がもどってくるのである。神道ルネサンスである。