一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性

一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共振性=他者の抑圧否定=憎悪・攻撃をもたらす


自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、一神教力学をこれまで見てきて、左辺を内包的に、抑圧否定する同一性自己(自我)の形成を考えた。この同一性自己=自我の基盤の鏡像(反射像・理想像)は、超越神=唯一神の像である。(しかし、この像は、いわば、精神的像であり、不可視である。この点については後で検討。)
 この力学の注意点は、左辺の差異共振性を否定して、そこに超越神を生起させることである。差異共振性は、虚軸と実軸の即非性をもち、超越的・即非・内在的であるが、超越神は、その内在性を否定して、超越性だけを帯びると考えられる。この点は既述したことである。
 問題点は、左辺の否定のもつ憎悪・ルサンチマン(嫉妬深さ)のもつ意識構造の意味である。これについて再考したいのである。
 形成された自我=同一性自己は、超越神に、おそらく、類する力forceをもち、抑圧的に否定された差異共振性(他者)に対して、優位性を志向すると考えられる。優位性をもつというよりは、優位・優越衝動をもつのである。差異共振性=他者を劣位に置かんとする自我(同一性自己)優位・優越衝動であり、差異共振性=他者に対する攻撃衝動をもっているのである。
 この場合、攻撃とは、物理的、精神的暴力(傲慢さ・倨傲さ等)をもつと考えられる。ユダヤキリスト教西洋文明の攻撃性はこれで説明できると考えられる。
 問題は、この優位・優越志向攻撃衝動の発生のあり方である。内的に、差異共振性=他者を抑圧否定しているので、当然、外的な差異共振性=他者を攻撃することになると考えられる。何故なら、外的な差異共振性=他者は、自我・同一性自己に対して、内的に抑圧否定している差異共振性=他者を、エネルギー的に刺激して賦活・活性化させるのであり、それに対して、自我・同一性自己は、不快感・不機嫌・不愉快・嫌悪・憎悪等を覚えるのであり、それが原因で、反動的に攻撃衝動が発生することになるからである。
 つまり、言い換えると、内的な、差異共振性=他者の抑圧否定の力forceが、外的な差異共振性=他者を抑圧否定するために、攻撃衝動となると考えられるのである。衝動であるから、非合理的である。言い換えると、同一性知性による差異に対する非合理的な攻撃性である。【そして、この自我・同一性自己が近代合理性という物質的同一性知を得て、近代的自我となるのである。持論である近代的自我=狂気説はこれでも完全に説明できるのである。】
 結局、自我・同一性自己は、力forceで形成されたのであり、本質的に暴力・攻撃的であり、衝動的なのである。(唯一神ヤハウェ的)父権的暴力衝動と言っていいだろうし、これが拡大したのが国家暴力=戦争であると考えられる。
 とまれ、近代的自我=狂気説であるが、今日、トランス・モダンへの移行期であるポスト・モダンにあっては、近代的自我=狂気は精神病理化すると考えられるのであるし、そのことをこれまで何度も述べてきたが、ここで繰り返して言うと、今日、ポスト・モダンにあって、近代的自我を規制していた同一性主義の枠組みが緩み始めていて、抑圧否定していた内的な差異共振性=他者のエネルギーが積極的に発動するようになり、そのために、それを摂取できない近代的自我は、それをさらに抑圧否定しようとするのであるが、これは、いわば、盛期近代と異なり、差異共振性=他者のエネルギーが賦活されているので、それを抑圧否定しようとする近代的自我は、制御不可能の事態に陥っているのであり、そのため、発動する差異共振性=他者のエネルギー(超越・高次元エネルギー=聖なるエネルギー)が、近代的自我の非合理性を過剰にし、不安定化させるのであり、つまり、精神病理化をもたらすと考えられるのである。
 簡単に言うと、近代的自我の力と差異共振性=他者のエネルギーの分裂化が生起すると考えられるのである。これが、うつ病となったり、パラノイアとなったり、統合失調症(「分裂症」)等を引き起こす根本的な精神的事象であると考えられる。【p.s.  もう少し説明すると、今日のポスト・モダン期において、差異共振性=他者のエネルギーに対して、近代的自我は本来の攻撃衝動だけでなく、賦活された差異共振性=他者のエネルギーへの反動性をもつので、非合理な攻撃衝動と差異共振性=他者のエネルギーへの反動が混淆した狂気、いわば、複合的狂気をもつと考えられるのである。非合理な攻撃衝動狂気と超越的エネルギーの反動狂気の複合した二重狂気である。これは、簡単な言葉で名づけるのが難しいポスト・モダン狂気である。いちおう、反動超越的狂気とでも名づけておこうか。p.p.s. 痙攣的狂気とも言えよう。】
 少し補足すると、差異共振性=他者のエネルギーにさらされた近代的自我であるが、それは不安や恐怖等を感じると考えられる。未知の力にひたされているのである。問題は、この未知のエネルギーを摂取する方法である。自己転換の方法である。これについては、本来、東洋思想は蓄積があるのである。例えば、禅は、この練達の方法、精神・身体技術である。
 しかし、今日、科学・技術の進展した時代においては、この問題はどうなのだろうか。トランス・モダン化が必然となっているので、避けては通れない問題である。とにかく、東洋の修行的宗教思想は、この点で効果的であると考えられるが、知的にはどうなのだろうかという点がある。
 やはり、イデア論が決定的だと思う。イデア界を想定することで、差異共振性=他者のエネルギーを知的に取り込むことが可能になると考えられるのである。この点については、以前触れたことがあるが、重要な問題なので、ここでも述べてみたい。
 イデア的知を想定することで、心は、そこにおける差異共振性=他者のエネルギーを衝動ではなく、観念的に取り込むことが可能になると思われるのであるが、その理由は何であろうか。
 これは、心・観念の力学の問題であるが、心・観念において、衝動・情動が生じると考えられるのである。しかしながら、身体との関連はどうなのかという問題もある。つまり、衝動・情動とは、単に心的だけでなく、身体的でもあるのではないのか、ということである。問題は、エネルギーである。Media Point の差異共振エネルギーの問題である。これまでの考えでは、魂=身体である。あるいは、心=身体である。だから、衝動・情動は、心・観念=身体の問題であるということになるのである。(私がいう身体とは、単に物質的身体ではなくて、知と存在の共振によって発生する心身体である。)
 さて、イデア的知を想定することによって、超越エネルギーは、知性的に把捉されると思われるのである。この知的把捉とはいったい何だろうか。それは、端的に言えば、Media Point と結びついた知性の形成を意味するのではないだろうか。つまり、これまで、知性は、一般には、同一性知性であったが、その知性に超越エネルギーを捕捉する知を加えることではないだろうか。これは、エネルギーの知的捕捉と考えられる。エネルギーの知的蓄積である。
 では、このイデア的知性はどういう意味をもつのだろうか。それは、当然、差異共振知性である。つまり、同一性を包摂した差異共振知性の形成を意味すると思えるのである。あるいは、同一性知性を包摂した超越知性の形成である。思うに、Media Point Intelligenceと呼ぶことができると思う。これこそ、プラトニック・シナジー理論のもたらす知性、プラトニック・シナジー知性である。これは、カントが認識不可能と考えた物自体の知性でもあると考えられるのである。とまれ、これで、イデア的知性の意味を説明したこととしよう。
 因みに、一神教のもたらした積極的意義を考えるならば、それは、純粋に超越的次元を形成したことだろう。虚軸の次元を形成したと考えられるのである。多神教の場合は、Media Point を保持するが、同一性化=世俗化によって、超越的次元を喪失しやすいと言えるのかもしれない。