検討問題:何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか、他

1)何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか:夜入る風呂と比べて、昼間入る風呂は、からだがあたたまる気がする。気のせいか。何か不思議である。関係ないが、昼間酔うと気持ちのいいものである。何か、陽光と関係するのか。(残念ながら、最近は禁酒9ヶ月以上である。)


2)道教でいう丹田プラトニック・シナジー理論の関係について:上丹田は知性、中丹田は心でいいが、下丹田は肚であるが、PS理論ではどうなるのか。
 直感では、差異共振性は、中丹田=心(又は、魂)で起る。だから、Media Pointの位置はここにあると思われる。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺は中丹田となるが、+iが上丹田で、-iが下丹田ということになるのか。もし、そうならば、近代的自我/近代合理主義とは、上丹田が中心化されている自己である。つまり、右辺の+1の自我=同一性自己は、+i が中心化されていることになる。
 そうすると、これまで思考実験してきたように、+iが原同一性知性であり、-iが原身体性ではないだろうか。また、ジェンダーで言うと、+iの優位が男性(人間)であり、-iの優位が女性ではないのか。また、西洋は+i(頭)が優位であり、東洋は-i(肚)が優位ではないのか。
 近代的自我/近代合理主義は、+iが中心化された+1と見るなら、それは、-iが劣位に置かれている、ないしは、抑圧されているのである。その状況においては、心と言っても、-iが抑圧否定されているので、+i(頭・同一性)の枠組みの中の心であり、純粋な差異共振性としての心ではないだろう。(本居宣長の大和心は、これだと思う。自我における心なのだと思う。キリスト教の愛もやはり、これと同質になっていると思われるのである。自我における愛である。)
 この観点から見ると、ポスト・モダンは、-iの取り戻しと言えないこともないだろう。+iを原同一性とすれば、-iが原差異であるからである。しかし、逆に-iを中心化するのは、反動となる。アイロニカルな没入という反動が生起するだろう。また、-iを他者と見てもいいだろう。近代的自我/近代合理主義は、他者を否定しているのである。
 内面を測深することの必要を言ったが、問題はもし、内面観察(省察)が-i(肚)に達さなければ、それは、自我内の心に留まるということである。-iの肚まで、測深は達する必要があるだろう。それをするには、東洋的身体行が必要である。単なる瞑想ではだめで、-i=肚=下丹田を基盤とする瞑想が必要になるだろう。
 思うに、今日の日本人は、この-i=肚=下丹田を喪失しているように思えるのである。皮相な+i=頭=上丹田中心の自我=同一性自己になっていると思われるのである。
 ここで、私説の西洋文化史を言うと、イタリア・ルネサンスは、左辺の差異共振性の発露であり、プロテスタンティズムは、それをベースにした、自我=同一性自己である。だから、プロテスタンティズムは、近代的自我/近代合理主義を生みだしても、それは、トランス・モダンへと転換する資質はあると考えられるのである。(しかし、それには、ヤハウェ主義を乗り越える必要がある。後期デリダには、それが見られるが。)
 日本の場合、神道や仏教が左辺を保持していたのであるが、それが、近代化で、まったく喪失してしまったのである。三島由紀夫の言う「断絃の時」である。
 とまれ、整理すると、内面形成と言っても、-i=肚=下丹田に達しないと中途半端である。そこに達して、+iと-iとの差異共振性*が発生すると考えられるのである。だから、プラトニック・シナジー理論とは、プラトニック・東洋文化理論でもある。
 そういうような視点から近代的自我/近代合理主義の狂気やポスト・モダン的精神病理を見ると、-i=肚=下丹田のもつエネルギーに対して盲目であることから発していると言えないだろうか。単に、上丹田の知や中丹田の心だけでは、差異共振エネルギーを摂取することはできないのである。言い換えると、-iに基づくエネルギーが反動エネルギーとなり、狂気・精神病理を発症させているのではないだろうか。

p.s. 確かに、近代的自我/近代合理主義意識は、-i=肚=下丹田を喪失しているが、逆に、そのエネルギーが、いわば、闇のエネルギーになって、それに非合理に突き動かされているように思える。-iの闇のエネルギーが反動となり、攻撃衝動となっているように思えるのである。この点は、さらに検討したい。

丹田
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3)自我=同一性自己の問題について再考:近代的自我/近代合理主義では、自我が中心化している(自我中心主義と言うべきであり、いわゆる、自己中心主義は、理論的には間違いである。自我と自己が混同されているのが問題である。我と己は異なるのである。)

 以前考察したが、自我のもつ他者に対する優位・優越の意識はどこから発生するのか。二項対立の原因である。差異共振性=他者を抑圧的に否定して、自我=同一性自己が形成されるのであり、そのとき、抑圧する自我=同一性自己は、当然、優位・優越の意識を帯びると考えられるが、結局、どうして、それが発生するのか、という問題である。
 他者を否定する自我はどうして、自身を優位・優越と思うのか、である。この疑問に答える前に、自我は他者(差異共振性)の抑圧的否定によって、アイデンティティ(正に、同一性である)を保つのである。いわば、他者に勝ち誇りたいという一種盲目な欲望がある。
 そう、自我=同一性自己のもつこの他者に対する攻撃性はどこから来るのだろうか。自己認識方程式では、左辺の否定として、右辺の自我=同一性自己が発生するのである。それは、機械的な、単純な抑圧的否定である。自動的な抑圧的否定である。
 ならば、これは、自然的悪魔性である。人間のもつ自然的悪魔性としか言いようがないだろう。それに対して、善性は、抑圧否定された他者=差異共振性から生まれるのである。人間の内部に、悪魔と天使が住んでいるのである。ただし、意識は自我としては、悪魔と一体なので、自分が悪魔的であるのが認識できないのである。悪魔としての自我=同一性自己なのである。近代的自我/近代合理主義とは、悪魔的なのである。だから、この根源であるヤハウェとは、端的に、悪魔神、魔神、邪神である。(グノーシス主義は、この世界を造った創造神デミウルゴスを邪悪な神としたが、それは正しいだろう。デミウルゴスとは、ヤハウェである。)
 とまれ、肝心の問題は、自我=同一性自己の優位・優越意識の発生因は何かである。何故、自我=同一性自己を優位・優越と意識するのか。ここには、鏡像の問題があるだろう。思うに、Media Pointから自我=同一性自己が発生するとき、同一性の志向性は、鏡像を結ぶと思うのである。その鏡像に対して、意識は、同一性化すると考えられる。そして、自我=同一性自己が生起すると考えられるのである。
 だから、当然ながら、元々、自我=同一性自己があるのではなく、Media Pointからのある意識が同一性の志向性から自我=同一性自己意識を形成すると考えられるのである。ここでは思考実験するが、ある意識とは、+iの意識ではないのか。つまり、原同一性である。本来、原同一性と原身体とが共振するのであるが、⇒+1の同一性発現では、原同一性が自我=同一性自己になると思われるのである。言い換えると、原同一性意識が自我=同一性自己になるということである。
 だから、人間においては、+iと-iとの非対称性があるように思えるのである。つまり、以前、人間は本来的に同一性に傾斜していると言ったが、それがここでも確認できるのではないだろうか。+iが-iに対して、元々優位を帯びているのである。原優位性、原傾斜である。
 そうならば、自己認識方程式は複雑になるだろう。⇒+1とは、+iの優位に基づく産物であることになるのではないだろうか。否、それではおかしいだろう。差異共振が積となって、⇒+1となるのである。そこには、均衡があるのである。
 ならばどう考えたらいいのだろうか。思うに、+1において、+iの意識が優位になっているということではないだろうか。あるいは、積とは、+iの-iに対する優位を意味するだろうか。そうかもしれない。私は、また、+iを原形相、-iを原質料としても考えている。だから、+iが優位となり、-iに対して、原形相を押しつけて、形相のある物質を生みだすのが、+iと-iとの積の意味かもしれない。そうならば、もし、-iが優位であったらどうなるのだろうか。それは、積にはならないだろう。商になるのか。即ち、(+i)÷(-i)=-1ということなのか。この問題はここで留めたい。
 ここで、異なる考え方をしてみよう。つまり、原優位性、原傾斜はないということで考えるのである。それは、最近の考え方である。つまり、抑圧的否定によって、+1である自我=同一性自己が生成するということである。ここでも、鏡像を考えると、同一性鏡像が生じるとすると、これに意識は同一性化するのである。
 思うに、Media Pointが鏡面になるのである。そこで、+iと-iとが出会うのである。+iが-iを見るのであり、また、-iも+iを見るのである。いわば、お見合いである。そのときの相互的鏡面において、原同一性像=鏡像が生まれるのではないのか。そして、この原同一性像=鏡像が、エイドスとしてのイデアであり、それが、現象化したのが、+1ではないのか。
 換言すると、Media Pointは鏡面を形成して、鏡像=エイドスを形成する。それが、現象=物質化したのが、+1ではないのか、ということである。だから、⇒の起点・始点は、鏡面=エイドスでもあるのではないだろうか。そして、鏡面は一種のイデアであり、観念であろう。
 では、後者のように考えるとき、優位・優越性はどこから生まれるのか、である。これはわかりやすいのではないか。即ち、Media Pointの鏡面の鏡像を介して、+iは-iと同一性化するのであるが、この時、鏡像と同一性的に融合した自我(ないしは原自我)は、正に自己陶酔(ナルシシズム)の様態にあるだろう。この自己陶酔、自己快楽、自己悦楽が、自我優位・優越意識の原点ではないだろうか。言い換えると、Media Pointにおいて、根源界・イデア界の差異共振様相から「鏡像段階」へと展開するが、差異共振性を否定する鏡像への同一性化による自己陶酔の快楽・悦楽が、差異共振性=他者に対する自我優位・優越意識をもたらすのではないだろうか。
 ここには、言葉・用語の問題がある。快楽・悦楽と言ったが、ここにあるのは、欲望の原点であると思う。だから、原欲望である。それに対して、差異共振性は歓喜であろう。つまり、歓喜から欲望への転換がここにはあると考えられるのである。歓喜は他者との共感性(共振・共鳴性)にあるが、欲望は他者を同一性化することにある。
 問題はどうして歓喜から欲望への転換において、優位・優越意識が発生するのかということである。やはり、ここでは、なんらかの同一性価値の発生を見るべきように思われる。基準となる同一性価値ないしは同一性中心価値があり、それが優位項となり、他者(差異共振性)は劣位とされると見るのが妥当だと思われるのである。
 では、価値基準となる同一性価値とは、どこから発生するのか。他者価値(差異共振価値)よりも、同一性価値の方が優れているという価値観はどこから生まれるのかである。
 思うに、同一性への志向とは、「自立」・「独立」への志向である。的確に言えば、個体への衝動であると思われる。同一性への志向性とは、個体化への志向性である。当然、それは、自我への志向性である。
 ここで丁寧に考えると、イデア界において、イデアは差異共振様相(エネルゲイア)にあり、イデアは非同一性の様相にあるのであり、個体としては存していないのである。イデアは、現象化して、個体・個物になることを志向していると思われるのである。つまり、差異から同一性化への志向性がイデア(差異共振性)にはあると考えられるだろう。この、言わば、同一性志向性は、当然、ある必然性をもっていると考えられる。
 差異共振性であるイデアエネルゲイア:活動態)から同一性(エンテレケイア:終局態)への進展は、だから、能動的なもの、積極的なものと言えよう。その観点から言うと、他者=差異共振性より、同一性の方が価値があるのである。つまり、言い換えると、イデア様相の差異共振性、すなわち、原差異共振性から同一性への志向性(これを同一性エネルゲイア乃至は、同一性エネルギーと呼べよう。それは、端的には、物質的エネルギーであろう。)がMedia Point において発生し、この同一性志向性(同一性エネルギー)は、原差異共振性(イデア)を劣位に置き、同一性を優位に置く価値観をもっていると考えられるのである。
 言い換えると、同一性志向性自体が優劣価値観、即ち、二項対立的価値観をもっていると考えられるだろう。
 ということで、なぜ、自我=同一性自己は優位・優越意識をもつのかという問いにいちおう答えたことになる。つまり、イデアの必然性なのである。言い換えると、自然の必然性なのである。そして、これは、父権神話的、一神教的必然性である。男性的必然性である。
 それに対して、太母(母権)神話的、多神教的、女性的必然性があると考えられる。それは、イシス・オシリス神話に存していると思えるのである。オシリスは同一性であるが、差異共振性であるイシスと分離していないのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point に包摂された同一性としてのオシリスであると考えられる。
 この場合、オシリスはイシスに対して優位・優越意識を、当然、もっていない。両者は一如であり、どちらかと言えば、イシスに優位性があると言えよう。
 では、この場合の力学はどう説明できるのだろうか。一神教的必然性では、他者である原差異共振性に対して、同一性は優位・優越意識をもったのであるが、この意識が発生しない多神教的必然性とはどう説明されるだろうか。おそらく、原差異共振性(イシス)と同一性(オシリス)は未分化なのである。Media Point 自体における「現象」としての多神教的必然性があるのだと思う。つまり、純粋な同一性、原差異共振性から独立した同一性は発生していないのである。言い換えると、イデアからの同一性への変換の過程にあると考えられるのである。つまり、エネルゲイア自体としての多神教的必然性である。これで説明できたこととしよう。
 そうすると、ガウス平面ではどう説明できるのだろうか。一神教は端的に1/4回転で説明できよう。思うに、多神教一神教への移行過程とするならば、それは、いまだゼロ回転ではないだろうか。1/4回転への志向性はあるが、それは、エネルゲイアである。思うに、Media Point におけるゼロ回転としてのエネルゲイア自体で説明できるのではないだろうか。ゼロ度の多神教力学である。Media Point の多神教力学である。そして、これは、仏教、とりわけ、大乗仏教にもあてはまることと考えられる。
 そして、さらに、一神教的必然性の後のことを考えてみよう。同一性=物質が形成された後、その必然性は終焉して、もはや、創造は為されなくなるだろう。終末である。一神教の終焉である。プラトニック・シナジー理論で考えると、もうエネルギーの放出が終わったのであり、新たなエネルギーの放出が考えられるのである。新たなエネルゲイアの発生である。即ち、新多神教・新仏教である。新神道である。それは、新たなMedia Point の開放である。それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明すると、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)ではないだろうか。第3番目の差異共振性は、いわば、螺旋的回帰であり、第1番目の差異共振性よりは高次元にあると考えられるのである。そして、これは、二重螺旋であると考えられ、この二重螺旋回帰が永遠に反復されるように思われるのである。すると、二重螺旋永遠回帰イデア/現象界に起こっているということになるだろう。
 では、補足的に言うと、-1とはどういう意味をもつのだろうか。形式的に考えると、+1が物質ならば、-1は反物質ではないだろうか。あるいは、前者が光の物質ならば、後者は闇の物質ではないだろうか。今は、思考実験的に言うだけだが、ルイス・キャロルの『鏡の国』のような対称的世界ではないだろうか。逆さまの世界ではないだろうか。時間が逆転するのではないだろうか。とにかく、不可能の世界だと思う。ひょっとして、これが、デュナミス(可能態)の世界ではないだろうか。-1=(+i)^2=(-i)^2である。だから、-1は、+iや-iの+1/4回転、-1/4回転を形成していると言えないだろうか。つまり、イデア界の1/4回転の原動力ではないだろうか。言い換えると、-1とは、デュナミス・イデア界ではないだろうか。そして、それが、いわば、エネルゲイアイデア界を発生させるのではないだろうか。すると、初めに、-1ありきとなろう。今はここで留める。

p.s. また、自己理解即ち、自己覚醒の問題であるが、自我主義に染まっている人間の覚醒方法は何か。金儲けが人生の目的であった私の亡父は、癌で死ぬ間際、病院のベッドで、金儲けなんてどうでもいいと諦めるような口調で言っていた。死に際になって目覚めたのである。日本も死に際になって目覚めるのか、それとも、死に際でも度し難く無明のままであるのか。


4)今日の心の病であるが、なにか、精神の発達の衰えがそこにはあるのではないだろうか。なにか、幼稚な発想の人が心の病になる傾向はないのか。精神の発達の衰えとは、教養の衰えと相関関係にあるのではないだろうか。端的に言えば、知の衰退である。
 後で補足したい。