父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主

父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて


この問題は複雑なので、余裕のあるとき十分に検討したいが、今簡単に問題を言うと、例えば、自由主義とは、父権一神教から生まれたのか、それとも、母権多神教からなのか、という問題である。
 そう、その前に、自我の問題について再考しておこう。私はヤハウェをいわば、自我中心主義の神として邪神扱いしてきたが、どうも問題はそんなに簡単ではないようである。
 結局、自我と自己の関係をどう捉えるのか、ということである。例えば、今、考えている私がいるが、その私は自我なのか、自己なのか、である。私は今、考えを言語化して、パソコンのキーボードに打ち込んでいるが、そのとき、思考している私は自我なのか、自己なのか、である。(これはつきつめると難しくなるので、普通に考えたい。)考えが頭にまとまり、それを言語化して、キーボードに打ち込んでいる私は自我か自己か。
 私はこれまで、自我を否定的に捉えてきたが、果たして、自己から自我を無くすことができるのだろうか。考えている私は一部では自我ではないのか。つまり、頭のことである。自己の源泉は身体内にあると思っているが、思考する私の頭は自己の先端かもしれないが、それは自我と言えないだろうか。
 言語知性の部分である。思うに、それは自我と言えるように思えるのである。そして、自己はもっと深部に存していて、自我と即非関係にあるように思えるのである。思うに、自己の同一性の展開として同一性自己としての自我があるということだろう。そして、自己が自我を包摂しているということだろう。(因みに、ユング心理学は個性化として、自我と自己の統合を述べているが、それは、この点から見て、折衷的である。自己が自我を包摂するのであるからである。)
 そうすると、ヤハウェはいわば自我神ということで、重要な役割があると言わなくてはならないだろう。それは、同一性自己=自我を形成させる原因である。そして、この自我形成によって、原自己=Media Point の同一性展開が十全に為されるのだろう。この同一性自己=自我の発展は、自己を分裂化するものである。そして、とまれ、同一性の形成作用があり、それに対抗する差異作用が発動すると考えられるのである。言うならば、同一性と差異との相克関係が生じるのである。
 ということで、これまでのヤハウェに対する全的批判をここで取り下げて、同一性自己=自我形成の役割を見て、その部分は肯定したい。
 しかしながら、この同一性自己=自我形成は、その連続性から同一性主義(自我中心主義、悪魔主義)を生み出したと言えよう。キリスト教ヤハウェ(父)に対して、子のイエス・キリストを神としたが、しかしながら、やはり、父の連続しているので、イエスは同一性主義から脱出していないのである。ここにキリスト教の限界があると考えられるのである。つまり、父(同一性)と連続的であるイエス(差異)であるということである。つまり、いわば、キリスト教はポスト・モダンなのである。
 この問題をさらに延長すると、脱連続化とは、聖霊によると考えられるのである。ヨアキム主義である。これがトランス・モダンに当たると思えるのである。聖霊の時代である。
 さて、そのように自己同一性=自我を考えるた上で、自由主義はどうやって生まれたのかを考えると、やはり、ユダヤキリスト教が必要であったと思えるのである。しかしながら、同時に、基盤として、母権的多神教が必要であったと思えるのである。これは民主主義とも関係するが、父権的一神教と母権的多神教との間ないしは境界において、自由主義、民主主義、個人主義等が生まれたと思えるのである。
 しかしながら、父権的一神教の要素が強化されて、基盤・母胎の母権的多神教が弱化すると、それらは歪曲ないしは形骸化すると考えられるのである。つまり、差異と同一性の緊張関係からそれらは生まれたのであり、差異が失われると、同一性主義となり、ショート(短絡)すると考えられるのである。【ただし、ポスト・モダン期においては、確かに、差異が活性化するが、それは、逆に同一性を否定して、二元的緊張関係を喪失して、倒錯化(ショート)したと思えるのである(アイロニカルな没入)。】
 以上から、今日、トランス・モダン進化にあって、父権的一神教と母権的多神教の結合ないしは調和が考えられるのであるが、トランス・モダンとは同一性を包摂した差異共振性であるから、正確に言えば、父権的一神教を包摂した新母権的多神教が誕生するということなると思われるのである。これが新東洋文明である。
 

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同一性狂気について:同一性主義であることで、同一性自己=自我を支える仕組みの意味について


同一性自己=自我は、同一性主義でないと自我を維持できないようだ。同一性主義がいわば麻薬のようなものである。同一性主義の快感・快楽によって、自己の理性(差異理性であり、同一性理性ではない)を麻痺させるようだ。
 この病的・病理的なメカニズムの仕組みはどういうものなのだろうか。自我ではなく、自己(これが、本来のその人であり、自我は同一性化された自己のことである)の根源・基盤はMedia Point にある。ここには、差異と同一性の即非的なエネルギーが存している。だから、同一性自己=自我にとっては、自然のままでは、差異と同一性の両方のエネルギーがあり、差異は自我にとっては不都合なもの、不快なもの、否定すべきものとして存するのである。そう、心中の否定すべきものである。だから、自我は内的な差異を否定するようにして、同一性主義を発動させると考えられるのである。自我にとって、同一性主義であることが必然なのである。これが、いわば、同一性主義の反復強迫であり、同一性狂気と言うべきものと思われる。
 そう、意識が内的に向いていないのである。意識が自己の根源に向いていないのである。単に外的対象に向いていて、外的対象を云々するのである。正に、世間形成動因である。
 やはり、先にも述べたが、内観(内感)・内省・省察・瞑想等の必要を唱えたい。そして、自己涵養を行うのである。それにより、近代的自我を解体させるのである。脱近代的自我である。
 問題はこの内感主義は、きわめて精神的な作業であり、それなりに危険をともなうので、場、教本、養成者等が必要であろう。近代主義教育では、当然、これは行えない。しかし、内感性をもたらす読書はできるのである。
 仏典・哲学書・神話学・文学であるが、私はその他に、シュタイナーの『いかにして超越的感覚を獲得するか』をあげたい。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的であるが、この本における八正道は参考になる。ただし、彼の瞑想法(薔薇十字の瞑想法)はやや疑問をもっている。(因みに言うと、黒い十字架に七つの赤い薔薇を想起する方法である。)