根源的ルサンチマン/自我優越性に関して再考:Media Pointの大歓喜

根源的ルサンチマン/自我優越性に関して再考:Media Pointの大歓喜からの、同一性の絶対優越性と原ルサンチマンの発生過程について


先に、出生時における根源的トラウマとしての原ルサンチマンと自我優越主義について述べたが、この問題をさらに精査していきたい。
 まず、仮説として、イデア=魂とする。これが、Media Point 化するのが、出生であろう。【受精についてであるが、これについては後で検討したいが、一言言えば、これは、物質的生命体の生殖原理に則したものであり、遺伝子の融合の問題である。しかしながら、そこには、精神・意識がないと思う。つまり、精神・意識とは、なんらかの「電磁波」が物質的生命体に接着するものではないだろうかと思えているのである。この点では、霊学的視点である。】
 そのとき、イデア=魂は同一性を形成する。しかしながら、初期の同一性形成は、差異と共存したものであり、ルサンチマンは生じていない。いわば、天真爛漫状態である。
 問題は、成長過程において、同一性が拡大するときである。幼少児は、外界の他者が自己の差異/同一性の心に対して、苦を与える存在であることを感じる。幼少児の差異/同一性の心とは、Media Point の心、イデア界が残っている心であり、心魂である。【この心魂とは、同時に、身体と共振・共鳴していると考えられる。思うに、イデア=魂は身体において、同一性化して行くのであるが、この同一性感覚・知覚が魂の同一性化としての心であろう。精緻に言うと、原点はイデア=魂であるが、それが、Media Point 化することで、身体と一如になるが、その(Media Point 的)身体の場において、同一性化が発展するのであるが、そのとき、心・意識が発生すると考えられるが、その心は感覚・知覚であるだけでなく、魂にも通じていると考えられるのである。つまり、心とは、物質的身体的感覚であると同時に、魂的感覚・精神的感覚でもあるということになる。簡明に言えば、物質的感覚であり、且つ、精神的感覚であるということである。ここで、感性について説明すると、感性とは、この心を介した精神的感覚のことを指すと思われる。言い換えると、物質的感覚から心を介した魂的精神的感覚のことであると考えられるのである。そして、これが、芸術・アートの「美」を意味すると思われるのである。】
 このイデア界の「記憶」を残す幼少児の心であるが、外界の他者からもたらされる苦によって、原ルサンチマンを形成すると思えるのである。否、厳密に言えば、イデア=魂の物質・身体化における同一性化プロセスにおいて、生起する心は、Media Point の根源的差異/同一性の調和様態からの離反を感じて、原ルサンチマンを感じるのではないだろうか。つまり、物質的身体という他者が存するようになるのであり、それと根源的差異/同一性様態が齟齬を来すと考えられるからである。
 つまり、物質身体同一性形成過程において、自己は自我化して、原ルサンチマンを形成するということになる。即ち、差異と同一性化の間に齟齬が発生し、その齟齬が同一性の側(自我)から差異(原自己)に対する原ルサンチマンを喚起すると考えられるのである。端的に言えば、同一性過程とは分裂過程なのである。それまで、Media Point 様態(胎内時ないしは出生時)においては、差異に同一性が包摂されている差異共振様態にある。しかるに、物質身体的同一性過程において、Media Point 様態の魂が同一性的心化していくが、その同一性発展過程において、魂が二分化されるようになるのである。即ち、同一性化された魂(自我)と根源の差異(差異共振性)である魂(原自己)の二分化・二元化である。両者を合わせて心と呼んでいると考えられるが、この心において、同一性魂(自我)と差異魂(原自己)の分裂様態が生起するのである。そして、前者の同一性魂(自我)は、その欲望・快感・快楽から、差異魂(原自己)の歓喜・共感性・共振共鳴性を否定するようになるのである。
 ここにおいて、きわめて複雑な心的現象が起きていると考えられる。この分裂的二重心性が幼少時に生起するのであるが、そして、根源の差異/同一性(Media Point 心性)は、同一性プロセスの発達にともない、苦を与える他者に対して、原ルサンチマンを発現させるが、最初の他者は自己同一性物質身体である。その自己身体に対して、原ルサンチマンが生じるのである。この原ルサンチマンを感覚・知覚する主体は何かと言えば、同一性魂であろう。精緻に言えば、差異のスクリーンに映った同一性像(鏡像)に基づく同一性自己=自我である。差異スクリーンに映った同一性像(鏡像)とは、背景に差異(差異共振性)、即ち、イデアが存しているのであり、それが、いわば、超越神的に、自我を支えているのであり、絶対的な自我を形成しているのであるが、それが、発生・出現・発現する他者によって原ルサンチマンを発生させると思われるのである。換言すると、イデア、この場合は、超越神的イデアに支えられた自我は当然、優越主義的自我であり、それが、発現する他者に対して原ルサンチマンを発生させるということである。
 この自我形成のメカニズムは正に、父権一神教の構造と等価であると考えられるのである。
 整理すると、イデア=魂は出生時において、Media Point 化する。それは、差異に包摂される同一性の様態である。あるいは、差異と同一性との共存様態にあり、それは、イデア界の記憶があり、歓喜に満ちている。それは、明確にするため、原歓喜ないしは大歓喜と呼んでいいだろう。地上楽園様態である。【思うに、空間的には、山頂・山巓で表現されるのではないだろうか。(参照:天の逆鉾。この逆さまがポイントであろう。イデア界から現象界への降下は、転倒するのである。本来、主である差異が従となり、本来、従である同一性が主となるからである。逆さまとなるのである。)】
 しかるに、イデア=魂は現象界において、同一性志向性をもっているので、同一性を発達させるのである。即ち、Media Point 共振様態から同一性傾斜が始まるのである。この同一性傾斜において、自我が発生するのであるが、それは根源的差異を背景としながらも、差異の同一性像(これが超越神であろう)に基づいて、自我形成するが、それは、差異の同一性像(鏡像=超越神)と同一性化(コピー化)しているので、絶対的優越化した自我であるのである。また、同一性傾斜過程における他者が出現するが、それは、絶対的優越自我に対して苦を与えるので、絶対的優越自我は、原ルサンチマンを帯びることになるのである。以上が本件に関する新たな解明である。
 最後に敷延的に、この同一性自己=自我(近代的自我)の形成が終焉した後のことを言うと、当然、それは、ポスト・モダン的ショート(短絡)様相=狂気・倒錯相となり、さらには、トランス・モダン的螺旋回帰を起こすと考えられる。
 このポスト同一性の再差異化であるが、その源泉は何であろうか。これまで様々に仮説を述べ、また、試論を行ってきたが、一つの主要な仮説は、エネルギーの変遷、乃至は、回帰という事態(心態・魂態・心魂態)である。即ち、初期・前期において、同一性化=自我化が進行する。しかしながら、中期・後期においては、同一性化=自我化が消滅して、再差異化=自己化が生成するというものである。言い換えると、エネルギーの反転過程ないしは循環過程であり、エネルギーの螺旋的回帰過程である。説明すると、前半の同一性形成過程においては、同一性エネルギーが活性化して、差異は抑圧否定される。しかし、後半においては、同一性エネルギーが衰退して、差異エネルギー(差異共振エネルギー=超越エネルギー)が活性化する。
 問題は、この活性化する差異エネルギーとは何であるのか、ということである。ここでも思考実験であるが、同一性エネルギー化とは、+iの主導化であり、差異エネルギー化とは、-iの主導化ではないだろうか。+iを陽、-iを陰とすれば、差異エネルギーは陰化である。これは、身体化と言えよう。
 しかしながら、この差異化=陰化=身体化とは、単極化ではなくて、前半において形成された同一性化に対する対極化であり、当然、差異共振作用を帯びるのである。(先に、モームの『月と六ペンス』の主人公ストリックランドについて、身体的霊性があると言ったが、この差異化=陰化=身体化のもたらす差異共振作用は、身体的霊性化に通じるであろう。)
 思うに、前半の同一性過程が1/4回転ならば、後半の差異過程は次の1/4回転ということではないだろうか。とまれ、易学的に言えば、トランス・モダンとは、陽極まりて、陰に転ずと言い換えられよう。


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多神教原理(差異原理・自己原理)と一神教原理(同一性原理・自我原理)の相克としての近代主義とその乗り越えとしてのトランス・モダン:トランス一神教原理としての新多神教原理としてのトランス・モダン・エイジ(トラモ時代)


先に自由主義、民主主義、個人主義の源泉は多神教原理であると述べた(共同体主義もこれが源泉である)。それは、当然、仮説であり、これをたたき台として、さらに検討したい。
 問題は西洋近代であり、私はそれを多神教原理と一神教原理の相克の時代と考えている。言い換えると、自己主義と自我主義の相克の時代である。つまり、人間・社会の内部に二つの原理が相克している様態が近代であるということである。
 自己は個や魂を志向するが、自我は同一性知性を志向する(近代的自我/近代合理主義)。換言すれば、差異主義と同一性主義との衝突である。思うに、この相克過程の中から、多神教原理を基盤にして、明確な民主主義、自由主義個人主義共同体主義等の価値観が生まれたのである。思うに、それは、多神教原理の一神教原理的表現だと思われるのである。差異原理の同一性原理による表現である。ここが要注意のポイントである。非常に微妙な事柄である。
 思うに、多神教原理は、わかりやすく言えば、相互扶助的世界、フッサールのいう生活世界(生世界)の原理であり、実質的民主主義、自由主義個人主義共同体主義の世界である。しかしながら、近代においては、一神教原理(近代的自我・近代合理主義)が発展して、社会を変容した。資本主義の進展によって、貨幣資本の同一性主義が強化されて、伝統的共同体(多神教原理)が解体されたのである。この中(カオス)から、政治・経済・社会・文化的に、民主主義、自由主義個人主義共同体主義等が生まれたのである。
 つまり、それらは、無意識であった多神教原理に一神教原理的表現(ロゴス)を与えたものと考えられるのである。しかしながら、それらの観念は基盤の多神教原理を認知していないのであり、無意識的に排除していると言えよう。ここに、近代的民主主義、自由主義個人主義共同体主義の限界が存していると言えよう。言い換えると、近代的民主主義、等々は、多神教原理(差異価値)を底上げするようにして、一神教原理(同一性価値)化したものなのであり、極言すれば、折衷・妥協的なもの、ないしはアマルガムである。端的に、差異の同一性化である。
 しかしながら、この一神教原理(同一性価値)化は、それなりに意味をもっている。つまり、一般化ないしは普遍化したからである。つまり、理念化されたのである。これは評価されなくてはならない。近代の積極的な価値である。
 しかしながら、近代主義は、一神教原理(同一性価値)が貨幣資本中心主義と近代的自我/近代合理主義によって強大・強固であり、多神教原理(差異原理・個原理・自己原理)は解体されていくのである。近代的民主主義は、その同一性原理によって無力化・形骸化するのである。
 今日、ポスト・モダンを経たグローバル経済世界において、差異原理は同一性原理に仕えるようになり、ショート(短絡)するようになり、私の言い方では、同一性原理は狂気化しているのである。偏執狂(パラノイア)化である。この問題も難しいのであるが、今、簡単に言えば、多神教原理(差異原理・個原理・共同体原理)が賦活・活性化されて、超越エネルギー(差異共振エネルギー)を放出しているのであり、同一性原理のシステム(近代主義システム:例えば、官僚体制)を解体して、超越エネルギー積極・肯定的に受容する新しいシステムが必要であるということである。これが、トランス・モダン・パラダイム・チェンジである。あるいは、トランス・モダン進化である。
 これは、民主主義、自由主義個人主義共同体主義のトランス・モダン化を意味するし、当然、資本主義のトランス・モダン化でもあるのである。トランス・モダナイゼーションtrans-modernizationである。
 また、根本的は、意識・知性・インテリジェンスのトランス・モダナイゼーション(今風に短縮して、トラモ化ないしはトラモ主義化)である。そして、この哲学科学的原理をプラトニック・シナジー理論(PSセオリー)が明示していると考えられるのである。
 来るべき時が来たのであり、来るべき理論が生まれたのである。