東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元

東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論


テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義


それぞれ、括弧に括らないと、正に、西洋中心主義ないしはオリエンタリズムになってしまう問題であるのだが、本稿のテーマは、どうして、チャイナに共産党があり、北朝鮮独裁国家があり、また、日本は、戦後「一党独裁主義」であるのはどうしてなのか、また、西洋は独裁主義を排して個人主義を保っているのはどうしてなのか、である。
 しかしながら、後者の問題は、もはや問題ではないだろう。ブッシュ政権は一種の全体主義と見られるからである。ネオコン全体主義である。
 だから、問題は、前者の東洋の問題である。近代西欧・米国は周知のように絶対主義政権に対して、自由主義・民主主義・個人主義を標榜して、今日の脱全体主義的社会を形成したとはいちおう言えよう。
 (ここにレーニン主義の問題があるが、それは、いちおう置いておきたい。)
 私は今、作業仮説をもっている。即ち、西欧文化は、母権多神教と父権一神教が平行している文化であり、自由主義・民主主義・個人主義は、母権多神教を基盤にして生まれているのであり、その表現として、父権一神教的形態をとっているのではないのか、というものである。これは、これまで、プロテスタンティズムルネサンスを包摂否定しているという考え方とは別の考え方である。
 そして、それと呼応して、東洋は母権的多神教が父権的一神教ないしは父権的共同体主義に包摂否定されているのではないのか、ということである。つまり、西欧文化というより、西洋文化は母権多神教と父権多神教の二重構造をもち、前者を母胎として、後者の形態(同一性主義)をとって、自由主義・民主主義・個人主義が生まれたのであり、東洋文化の場合、母権統合的父権主義であり、それが、近代化に際して、父権主義的連続的同一性が主動的になり、内なる母権多神教のもつMedia Pointが連続化して、全体主義化したのではないのか、というものである。簡約すれば、西洋は母権と父権の二元論であり、東洋は母権的父権性の一元論であるということになる。
 しかしながら、今日、西洋は、両者の混淆様態にあり、また、父権的意識によって、ポスト・モダンとトランス・モダンの中間態にあるのではないだろうか。
 それに対して、東洋(日本)は、ポスト・モダンを経験したが、父権主義を突破できずに、また、近代主義へと反動化してしまったのではないだろうか。それが、政治的には、小泉・安倍・福田路線ではないだろうか。
 しかしながら、今日、現代(2008年3月23日日曜現在)、内的な母権性、すなわち、Media Pointが開かれているのではないだろうか。プラトニック・シナジー理論は、日本で生まれた理論であり、西洋と東洋の統一の理論であるが、それは、思うに、母権統合的父権主義という一元論の内部に生まれた理論であり、いわば、内的な突破であり、端的に、母権統合的父権主義の乗り越え、つまり、現代的父権主義の乗り越えの意味があるのではないだろうか。つまり、トランス父権主義であり、新母権主義であると考えられるのである。
 西洋は近代においては、確かに、自由主義・民主主義・個人主義という積極的価値観を獲得したものの、父権主義と母権主義の平行的混淆様態のために、ポスト・モダンで行き詰まり、トランス・モダンへと転移できないのではないだろうか。それが、例えば、現在のサブプライムローン問題の金融問題を起しているのではないだろうか。
 しかしながら、アメリカ大統領選挙候補者予選において、オバマ氏の政治理念がトランス・モダンと考えられるので、欧米においても、トランス・モダン化の胎動していると見ることができよう。
 日本においては、父権的共同体的全体主義がなってしまっているのである。もっとも、内なるトランス・モダンは少数者に胎動しているのである。思うに、西洋の場合は、混淆になりやすいが、東洋の場合は、一元論のために、純粋トランス・モダンになるように思えるのである。
 とまれ、本テーマの作業仮説はいちおう結論は出たことになる。


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モーリス・ブランショの共同体論:ポスト・モダンとトランス・モダンの境界の動き


テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏


目覚まし時計をセットした時間よりもかなり早く目が覚めてしまい、起床することにして、手元にあった本が以下のブランショの『明かしえぬ共同体』であり、数ページ読んでみたが、先に言及したジャン=リュック・ナンシーの共同体論(私が読んだのは『共同ー体(コルプス)』であり、ブランショが言及しているのは、私が未読の『無為の共同体』であるが、共同体論では通じているだろう)に言及して、ブランショが共同体論を論じているのであり、バタイユを取りあげている。
 ブランショの論は何か古典的な内容で私を魅するのである。言い換えると、懐かしい議論なのである。つまり、特異性(個)と共同体の矛盾と関連性(一種、「絶対矛盾的自己同一」)を語りだしているからである。実にこの問題は、不連続的差異論で解明し、さらにプラトニック・シナジー理論で徹底的に解明されたのである。
 ブランショの議論は、ポスト・モダンの中に胎動するトランス・モダンを周辺に展開するように思えるのである。ポスト・モダンにあって、トランス・モダンである、それまでの共同体ではない共同体を語りだしていると思われるのである。以下の一節はポスト・モダンの限界があるように思える。


「個人はおのれを宣明するとき、譲渡不可能な諸権利を身に帯び、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、彼同様の一個人ではないような他者に対する依存関係のすべてに無関心な者として現われるが、その彼同様の一個人とは、過去においてであれ未来においてであれ際限なく反復された彼自身なのであるーーこうして個人は、死すべき者であると同時に不死の者として己を宣明する。」 p.012(赤色文字強調renshiに拠る)


共産主義と共同体の問題に関連してブランショは述べているのであるが、赤い文字で私が強調した「反復された彼自身」に問題があるように思える。あるいは、「個人」に問題があるのであるが、そのとき、特異性は、不連続性や差異共振性を帯びずに、連続性ないしは同一性を帯びたままではないのか、という疑問があるのである。
 これは、不連続的差異論が生まれる前、私が悩んだ問題である、というか、ポスト・モダン理論の核心にある問題なのである。つまり、特異性のもつ不連続性と連続性との問題であり、ブランショ自身、不連続性と連続性の混淆にまだ囚われていると思われるのである。だから、ブランショはポスト・モダン的であり、トランス・モダンへ向けて思考していると言えそうである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたことは、特異性に基づく他者との共振(共鳴)性があり、それが、従来の連続的な、ないしは、同一性的な共同体とはまったく異質なものであり、未来的なものであり、トランス・モダンと呼ばれるべきものなのであるということである。
 私はブランショの考察を少し読んで、共同体という言葉を以前、少し用いた共振体という造語にしたらどうかと思ったのである。あるいは、共鳴体でもいいだろう。ただし、社会性が見えにくい嫌いはあるのである。だから、丁寧に言えば、差異共振共同体(差異共鳴共同体)ないしは差異共振社会体(差異共鳴社会体)と言うことになるだろう。
 思うに、あえて言えば、プラトニック・シナジー理論はこれまでの哲学を古典にしてしまったのである。


明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (文庫)
モーリス ブランショ (著), Maurice Blanchot (原著), 西谷 修 (翻訳)


モーリス・ブランショ
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot, 1907年 9月22日 - 2003年 2月20日 )はフランス の作家 ・批評家 。通称“顔の無い作家”。ストラスブール 大学卒業。戦前のポール・ヴァレリー に比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。


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素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。


テーマ:相対性理論量子論


素粒子と物理法則―窮極の物理法則を求めて (ちくま学芸文庫) (文庫)
リチャード・P. ファインマン (著), スティーブン ワインバーグ (著), Richard P. Feynman (原著), Steven Weinberg (原著), 小林 〓郎 (翻訳)

ちらと見たが、素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。
 以下、カスタマーレビューから。


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5つ星のうち 4.0 「第1回ディラック記念講演」(1986年)の講演記録、物理屋の姿勢が窺える, 2006/10/24
By ゴルゴ十三 "じゅうそう" (Japan) - レビューをすべて見る
(TOP 100 REVIEWER)
本書は1990年に発刊された単行本を文庫化したものですが、訳注や文庫版あとがきが良くできています。「文庫版あとがき」が理解出来るレベルの読者なら「物理を深く理解する姿勢」を両博士の講演から楽しめるでしょう。(ファインマン先生の講演ではファインマン図/光円錐が出てきますので、この意味が分からないとつらいかも?)
ファインマン先生の講演では、(1)粒子が正エネルギーしか取らないとすると、粒子が光円錐の外へ因果律を破って伝播するのを避けられず、その粒子を別の座標から眺めると反粒子(=時間的に逆行する粒子)として認識されること、(2)ある事象の起きる全確率=1を良く見直すと、反粒子の存在と対発生のために生じる余分な図形がスピンを持たない粒子に対してボーズ統計が成り立つことを意味し、同じことをフェルミオンに対して考えると、粒子の入れ替えについて負符号が現れること(フェルミ統計)、(3)2回時間反転すること=360°回転は同じで、これがスピンと統計の間の関係やパウリの排他律を与えること、の3点を主に説明されています。モノポールに関する言及もあり、ディラックの業績を意識した内容です。
ワインバーグ先生の講演では、量子電気力学とその一般化(統一理論)に伴う困難(e.g.発散の問題)、量子重力も扱えそうな期待株としての超弦理論について一般的な解説がなされています。現在も超弦理論について同じ期待を寄せているかどうか、興味があるところですが。