トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論

トランス・モダンの新しい位階の構築へ向けて:新しい霊主体従論


今、私の心の中では、私の人生は、現象主義と心的共振主義の争いが中心のテーマであり、また、これは、マクロで言えば、現在の人類史の根本的テーマであるという思いがある。
 簡単に言えば、可視界と不可視界のどちらに価値中心を置くのか、ということである。感覚界なのか、精神界なのか、ということである。この二つの世界の間に人間は置かれている。そして、近代世界においては、前者が中心化されてきたのであり、唯物論に至っては、後者は否定されたのである。
 問題は、私も愚者の一人なので、精神界が主であり、感覚界が従であることをきっぱりと悟ることができないことである。イデア論を説きながら、感覚現象界に囚われることである。
 思えば、同一性(感覚性)を包摂した差異共振性を私は説いているが、これは、まだ必要十分な言い方ではない。根本的には、差異共振性が主であり、同一性は従であるという新しいヒエラルキー(位階)を説く必要があるからである。
 思えば、シュタイナーの霊学は、霊主体従を説いている。精神性が主であり、物質性・感覚性は従であるということである。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的なので、その霊主体従論には批判的である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論において、精神性をイデア性・差異共振イデア性として捉えると、それが中心化すると、感覚性・物質性は従・劣位の価値になると考えることになる。
 これは、思うに、いわば、新しい中世であろう。確かに、近代は、中世の宗教的ヒエラルキーを打破して、感覚・欲望を中心化した、近代合理主義を進展させた。そして、これが、唯物論的利己主義・「自己中心主義」を生んだのである。
 資本主義の発展もこの近代主義に基づくと言えるし、また、相乗性があると言えよう。
 結局、感覚性・物質性を中心化することは、悪魔的であり、社会・世界を破壊・破滅させることであるのである。
 このことは、頭ではわかっても、「解脱(げだつ)」的に開悟することができずに、自分の経験として、痛みを通して理解することしかできないだろう。もっとも、学びを介して、教養的に、精神性を涵養させることはできるが、決定的な契機は、自分の心身の痛みである。苦とは偉大である。苦を介して、精神の叡知を身につけるのである。
 これから、サブプライム問題等によって、資本主義経済が解体していくと思われる。資本主義は、感覚・物質性に傾斜した経済形態である。問題は、経済に精神性を取り戻すことである。近代合理性の極致がたとえば、サブプライム問題、新自由主義であると思う。
 経済に精神性を取り戻すことは、明らかに、トランス・モダンである。これは、精神進化である。
 教養とは、精神知性のことである。そして、苦を介して、人間は深刻真剣に学ぶのである。幸福とは何ぞ哉。幸福とは、感覚性・物質性に対する精神性の優位性の実現に基づくものである。
 後で、本件から派生する感覚美と精神美の問題を検討したい。


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<長男絞殺>30歳の母親を逮捕 青森・八戸

4月1日21時1分配信 毎日新聞

 青森県警八戸署は1日、長男を絞殺したとして同県八戸市美保野、無職、西山未紀(みき)容疑者(30)を殺人容疑で緊急逮捕した。容疑をおおむね認めており、同署は動機を調べている。

 調べでは西山容疑者は1日午前9時ごろ、自宅2階の子供部屋で、長男拓海(たくみ)君(9)=市立美保野小4年=の首を電気コードで絞めて殺した疑い。拓海君には布団がかけられ、電気コードは室内で見つかった。

 西山容疑者は50代の父母と拓海君の4人暮らし。母親の通報で署員が駆け付けると、西山容疑者が家の中にいた。

 美保野小の長尾誠治校長らによると、学校周辺は工業化が予定され、新住民の流入が規制されているため在籍児童は増えないといい、07年度は3〜5年生の計4人で拓海君は最年少。7日に新1年生4人が入学予定で、拓海君は「お兄さん」になるのを楽しみにしていた。明るい性格で図書委員を務め、将来の夢は「電気屋さんになりたい」だった。

 学校は、子供の安全を考えて下校時は保護者が迎えに来ることになっている。西山容疑者も拓海君をよく迎えに来ており、3月26日の修了式にも出席し、変わった様子はなかったという。

 拓海君をよく知る男性によると拓海君は07年、仙台市の詩人・土井晩翠を記念し、小・中学生の詩作品を集めた第48回「晩翠わかば賞」で佳作を受賞。作品名は「おかあさん」で、男性は「(ふくよかな感じの)お母さんの体に触るとぷよぷよして気持ちがいい、という内容だった。目がくりくりして、人懐っこくて元気で明るい子だったのに……」と驚いていた。【後藤豪、喜浦遊】

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四大(地水火風)・五大(地水火風空)と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:ポスト・モダン哲学の数理化とプラトニック・シナジー理論

四大(地水火風)ないしは五大(地水火風空)について。四大とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+i、-i、(+i)*(-i)、 (- i)*(+i)の四元で説明できないのか。そして、五大の場合は、それにMedia Point=空(くう)を加えたものということではないのか。また、+1と-1であるが、+1は自己同一性=自我=エゴであり、-1はポスト・モダン的差異、連続的差異のことではないか。
 思うに、これまで、ポスト・モダン的差異はゼロ・ポイントではないかと思ってきたが、ゼロ度とは、自己同一性と連続的差異(ポスト・モダン的差異)の中点ではないのか。ドゥルーズが言う特異性は正に、この中点であり、Media Point ではないだろう。そして、初期デリダ差延であるが、それは、自己同一性(ロゴス中心主義)=+1と連続的差異(ポスト・モダン的差異)=-1との中点・ゼロ度における同一性+1と差異-1との併存性を指しているのではないか。差延においては、同一性と差異とが混淆併存していて、一義的意味が決定不可能ということになる。
 さらに、ハイデガー存在論的差異であるが、それは、ほとんど初期デリダ差延と等しいだろう。つまり、初期デリダは、ハイデガー存在論的差異を借用・踏襲しているのではないだろうか。即ち、ハイデガー存在論的差異とは、本来的存在と存在者(世界内存在)との亀裂を意味すると考えられるが、この亀裂とは思うに、中点・ゼロ度と考えられるのである。そう、初期デリダハイデガー存在論に付け加えているものがあるとすれば、それは、連続的差異=-1を指摘して、それと同一性との差延を述べていることではないだろうか。つまり、ハイデガー存在論は中点というよりは、ゼロ度=存在としたのであり、連続的差異=-1(ポスト・モダン的差異)までは指摘していなかったということではないだろうか。
 【不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論について言えば、前者は中点が不連続であることを発見したことにあるだろう。後期デリダは純粋差異(『死を与える』:「すべての差異はまったき差異である」)を発見したが、それに関連させれば、不連続的差異論は、純粋差異を不連続的差異、しかも、イデアとしての不連続的差異として把捉したことに意義があるだろう。因みに言えば、ここでイデア論が書き換えられたのである。同一性の原型としてのイデアではなく、純粋差異=不連続的差異としてのイデアがここで発見されたのである。これは、新イデア論であると言えよう。
 そして、プラトニック・シナジー理論であるが、それは、イデアである不連続的差異を、差異共振性として捉え直したことに中心的意味があるだろう。それはKaisetsu氏による数理化から、Media Point であることが判明したのである。】
 ということで、四大・五大の意味、そして、+1と-1の意味について、プラトニック・シナジー理論から試論的に説明してみた。

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桜花と星々

桜の花弁の中心に星形がある。桜の花は、星々が地上化したもので、地に向いている。桜花が風に舞い散る。それは、地面に落ちる。そして、腐敗する。春夏秋冬、時は循環し、また春が来るが、星々から桜の花がまた訪れるのではないか。

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検討問題1:神話の神々と超越エネルギー:神話と宗教の関係について:神話は宗教のイデア論的表現ではないか:神々は諸イデアではないのか

神々が諸イデアならば、占星術コスモロジーは、諸イデアの相互関係の宇宙を「体系」化したものではないのか。諸イデアの相互関係とはどういう力学で説明されるのだろうか。占星術や古代宇宙論では、神々と惑星は一致する。これを諸イデアとすると、諸イデア=神々=諸惑星となる。そして、原点として、原イデア=神=太陽となるのかもしれない。
 原イデアは、プラトニック・シナジー理論では、Media Point ではないだろうか。そうならば、諸イデア=神々=諸惑星はどういう力学から生起するのだろうか。
 先に、四大・五大のことを言ったが、四元論・五元論を考えると、四元要素ないしは五元要素が想定でき、要素間の独特の傾斜、あるいは、要素間の諸様相が、諸イデア=神々=諸惑星を生起させるのではないだろうか。つまり、四元論・五元論的イデア・コスモスがあり、それが、現象宇宙を生成消滅させているということになるのではないだろうか。
 そして、この四元論・五元論的イデア・コスモスが現象宇宙のイデアならば、地球・自然・人間界も当然、この原型をもち、それに影響される(influenceはもともと、星の力が流れ込むことを意味した)ことになるだろう。ここで、ヘルメスの言葉、「上にある如く、下も」が肯定されることになるのである。ただし、運命論というよりは、力学である。当然、偶然性があり、自由もあると考えられるのである。必然=運命があり、また、偶然=自由があると考えられる。これは、カントが言うようなアンチノミーではなくて、並存であると思う。必然の網があり、その網の目の透き間として、偶然=自由があると思う。思うに、網の目の透き間とは、Media Point =差異共振性ではないだろうか。言い換えると、神と人間の共振性・協働性があるということになろう。

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検討問題2:差異は平等ではないのではないか:民主主義とトランス・モダン・ヒエラルキー:トランス・モダン民主主義?

差異とは、正に、差異であり、それは個々は異なるということを意味する。問題は平等とはここにおいて何を意味するのかである。個の権利とは、差異の権利であり、それは認められるべきことである。個の権利とは平等なのだろうか。個は差異であり、平等ではないだろう。
 では、平等性とは何を意味するのか。私は個とは差異であり、差異のそれぞれの権利を認めることが必要であると思う。だから、差異共立原理・差異共生原理である。
 医者ならば、患者一人一人の個・差異を確認して、治療行為をするだろう。個・差異という単位においては平等ではある。だから、個・差異単位としての平等性はあるのである。
 しかしながら、個は正に、差異であり、平等ではないのである。つまり、差異単位平等と差異内容的不平等があるのである。
 ここで民主主義について考えると、それは、差異単位平等性に基づくものと言えよう。つまり、形式的平等性であり、内容的、質的平等性ではないのである。もっとも、後者が含まれてはいる。
 思うに、民主主義とは、根本的には、個・差異を確認して、共立する原理ではないだろうか。だから、個・差異がなくなれば、民主主義は衆愚政治になると言えよう。ここで近代民主主義が破綻することがわかる。
 しかしながら、個・差異を確認することは、精神的価値がないとできないのである。だから、近代的自我に留まる限りは、民主主義は不可能である。そう、近代民主主義は不可能である。
 精神化が必要なのである。それは、今のところ、少数者が可能なことである。とまれ、民主主義を可能にするには、トランス・モダン化が必須と言えよう。先に、トランス・モダン・ヒエラルキーについて言ったが、このヒエラルキーを基準とした民主主義となる。それは、精神的民主主義である。精神貴族的民主主義である。