自我主義の乗り越え:資本自由主義と形式民主主義と共同体民主主義:
自我主義の乗り越え:資本自由主義と形式民主主義と共同体民主主義:共同体民主主義的自由主義へ向けて
テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築
自分の周囲、そして、社会のこと、東アジアのこと、経済のこと、等々の様々な問題において、共通しているのは、自我主義が阻害要因であるということである。
問題は、自我の否定が必要であるということではないのである。思えば、オウム真理教では、自我の否定が説かれていただろう。問題は、仏教が自我の否定を説いているのか、である。これは難しい問題であるが、私見では、仏教は自我主義を否定しているのであり、自我は否定していないと思う。色即是空、空即是色であるが、色とは、自我主義のことであり、脱自我主義を説いているのであり、自我自体は否定していないと思う。
とまれ、自己同一性主義である自我主義の乗り越え、これが現代の決定的問題である。これまで、私は自我を否定して、自己を肯定してきたが、私が言いたかったことは、自己同一性主義の解体であり、自己同一性自体の否定ではないのである。自己同一性は否定できないのである。例えば、私は誰々、何々ですの誰々、何々は、否定できない。私は、Oという者で、医師です。と言う場合、この自己同一性=自我は否定できない。問題は、それが中心化されることである。それが諸悪の根源である。
思うに、ポスト・モダン哲学は、同一性主義批判(ロゴス中心主義批判)であった。そして、広義の差異を唱えたのである。
しかしながら、同一性主義は解体しなかったのである。冷戦後、グローバリゼーションは、資本の同一性価値を逆に強化して、サブプライム問題を生んでしまったのである。また、日本においては、東京中心主義となり、地方は没落してしまった。
ポスト・モダン哲学は、流行になったが、有り体に言えば、批判対象として、同一性主義=二項対立性を真に乗り越えられずに、その内部に留まってしまったのである。単にアンチテーゼにしかならなかったのである。極言すれば、いわば、ヘーゲル哲学に逆戻りしてしまったのである。
不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学の限界を突破して、新しい差異の地平をもたらしたと自負している。即ち、同一性主義を解体して、超越性をもつ差異共振性の根本性を説いたのである。同一性は差異に包摂されることになり、差異が主であり、同一性が従、いわば、差異主/同一性従の理論が生まれたのである。
これはまた、政治経済に対しては、自由主義と民主主義を共振化させることを説くものである。両者は本来、対立概念なのであり、それらが、先進諸国においては、併存する価値になっているが、それらは本来、異質な価値であると考えられる。即ち、自由主義とは、資本層にとって有利な考え方であり、下層にとっては、不利な考え方である。そして、民主主義は下層にとっても有利な考え方であり、資本層にとってもは、不利な考え方である。
しかしながら、ブッシュの説くイラクの民主化というイデオロギーがからわかるように、民主主義は先進諸国のイデオロギーになるのである。つまり、民主主義は自由主義のイデオロギーになると考えられるのである。
ブッシュの言う民主化とは、普通選挙のことであろう。(ならば、どうして、中国に民主化を説かないのか。首尾一貫していない。)それが普遍的な価値であり、それを他国に暴力的に押し付けるのは、どういうことなのか。
思うに、少なくとも、二つの民主主義がある。以前にも述べたが、繰り返すと、形式的民主主義と内容的民主主義である。ブッシュのいう民主主義は前者に過ぎず、後者ではない。
形式的民主主義は、普通選挙という形で明快であるが、内容的民主主義について考察しよう。
端的に、内容的民主主義とは、国民・市民・民衆(以下、三つを含めて、個民とする)の物質的、文化的、社会的生活を向上させる理念である。個民の諸生活を維持し、向上させる理念であり、法的システムである。そこには、医療、福祉、教育、文化、起業等々の領域がある。
だから、内容的民主主義とは、共同体民主主義と言えよう。結局、今日の世界は、政治経済的には、1)資本的自由主義と2)形式的民主主義と3)共同体的民主主義の三層を混淆していると考えられる。
大事なポイントは、2と3を明確に区別することであり、また、1を単に自由主義ではなく、資本的自由主義と把捉することである。このように規定することで、今日・現代の問題が明瞭明晰になると考えられる。
例えば、新自由主義は、1の中心化であり、3を阻害してきたのであることが今日明確になった。しかしながら、これまでの公共投資であるが、それは、一見、3の大義をもつようであるが、実質は1の強化であったのである。
つまり、現代世界において、1が中心化されていて、2によって、3の実体が等閑にされているのである。
では、このような傾斜した混淆した政治理念からどう脱皮できるだろうか。それは、広義の政治(単に間接民主主義形態だけではない)によって、共同体的民主主義のための公共投資を肯定する必要があると思われるのである。もちろん、資本自由主義の要素を活かすことが必要でもあるが、思うに、共同体民主主義理念に基づいて資本自由主義を機能させることが重要ではないだろうか。思うに、あえて言えば、共同体民主主義が主であり、資本自由主義は従である。
これが、今の時点で私が考える実践的なトランス・モダン社会創造の理念である。自由民主主義ではなく、民主自由主義である。
p.s. 今、以上を読み返して、日本における官僚主導国家資本主義のあり方が明確に指摘されていず、資本自由主義を大敵のように説いているのが気になった。
以上の三つのものに、もう一つ、国家統制型資本主義(国家社会主義?)を付け加える必要があるだろう。即ち、
1)資本的自由主義
2)国家統制資本主義
3)形式的民主主義
4)共同体的民主主義
と変更する。
日本の場合、明治維新から2の要素が強大である。そして、今日、日本経済の元凶となっているのである。
もっとも、先進諸国で考えると、資本的自由主義が、国家統制資本主義を利用する実態があるのではないのか。アメリカの資本的自由主義が日本の国家統制資本主義を利用していると言えるだろうし、また、マスメディアを資本とすれば、マスメディアの支配は一種国家統制資本主義になるだろう。(端的に、国家統制資本主義とは、全体主義である。)
ということで、訂正して、自由主義と形式民主主義と共同体民主主義と国家統制主義の4つの要素があるということである。
結局、まとめ直すと、国家統制資本主義と資本自由主義の癒着を無くすために、国家統制資本主義を抑止して、共同体的民主資本自由主義を構築する方向性が現われてくるのである。
小さな国家論であるが、共同体民主主義の実現のためには、共同体のための行政が必要になる。だから、一概に小さな国家論とはならないだろう。国家統制資本主義における国家統制という意味での国家は当然、小さくなるが、共同体民主主義の構築のための、複数の小さな国家が必要となるのではないだろうか。つまり、複数の共同体国家での必要である。
後で再考したい。