チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的

チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

この問題は、さまざま説明されているが、真相がわからない。とまれ、状況・文脈を考えよう。

1)アメリカは中国と経済的友好関係を維持したい。
2)中国は、アメリカと組んで経済開発を行いたい。チベットには、地下資源がある。
3)英米中心主義は、中国を押さえたい(田中宇氏)。
4)中国はオリンピックを成功させたい。
5)欧米の民主主義イデオロギーがある。
6)欧米には、オリエンタリズム(西洋中心主義)がある。
7)チベットは、欧米の民主主義派の支援を受けている。チベット自治を行いたい。
8)中国は、少数民族の独立を抑えたい。覇権主義。暴力で押さえつける。

ざっとあげるとこのようになる。何がわかるだろうか。一つは、中国の反民主主義的支配があり、一つは、欧米の利害関係があり、一つは、チベット自治の動きがあるということであろう。大きな問題の一つはアメリカの二股膏薬性・二枚舌である。自己中心主義である。
 私は中国の暴力的支配に、確かに問題があり、それは、非難されるべきであると思うが、それ以前にアメリカの二股膏薬、覇権的ご都合主義が一番の問題ではないかと思う。三番目には、欧米の民主主義に基づくオリエンタリズムイデオロギーである。もっとも、正しい面は否めないが。
 アメリカが自分の経済的都合から、中国の政治を甘やかしたのが一番問題だと思う。イラクへの民主化を言うならば、中国や北朝鮮への民主化を要求する必要があるにもかかわらず、それには蓋をして、経済的利益から友好性を結んでいることである。つまり、自国中心主義的戦略に問題がある。
 理論的には、巨大資本主義的自由主義に問題があると言えよう。つまり、経済中心的自由主義に問題がある。必ず、民主主義的自由主義を理念的にもつ必要がる。これは、政治がチェックする必要があるのである。
 ということで、現段階では、私見では、本件において、一番問題があるのは、アメリカの覇権的ご都合主義的外交であるということになる。

Proteste gegen Chinas Tibet-Politik
San Francisco wappnet sich für Fackellauf

San Francisco bereitet sich auf Massenproteste beim olympischen Fackellauf vor. Heute soll das olympische Feuer durch die Stadt getragen werden. Schon gestern protestierten dort mehrere tausend Menschen friedlich gegen Chinas Tibet-Politik.

Von Jan Tussing, HR, ARD-Hörfunkstudio Los Angeles

Über 500 Polizisten standen bereit, als die olympische Flamme in der Nacht zum Dienstag das amerikanische Festland erreichte. Es besteht höchste Sicherheitsstufe, denn der Druck auf die Stadt San Francisco wächst stündlich. Tausende von Demonstranten haben sich in San Francisco mit Protestplakaten und tibetischen Flaggen eingefunden.
Pro-Tibet Demonstranten in San Francisco (Foto: dpa) [Bildunterschrift: Auch gestern gingen im Stadtzentrum von San Francisco wieder tausende Demonstranten auf die Straße.
http://www.tagesthemen.de/ausland/olympia122.html

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「気」とは何か:超越エネルギーと精神生命とMedia Point Intelligence

テーマ:新霊性new spirituality

「気」とは何か。これは、実は、簡単に誰でも感覚することはできるのである。合掌するようにして、両手の指先を接近させて、先端を意識するのである。そうすると、磁力のようなものが感じられるだろう。これが「気」だと思われる。思うに、電磁気力である。あるいは、生命電磁気である。
 私は先に、「気」を同一性エネルギーと考えた。つまり、同一性=物質を形成するエネルギーである。しかしながら、同一性=物質は、それ自体では、生命にはならないだろう。生命体は単なる同一性=物質ではない。
 Media Pointの様相を考えよう。ここでは、垂直の超越エネルギーが水平の現象エネルギーへと変換される。いわば、質的エネルギーを量的エネルギーへと変換させる回路がそこにある。
 これは、単に物質現象の説明にしかならないだろう。生命現象を説明できないだろう。では、生命現象とは何か、である。
 作業仮説ないしは思考実験であるが、生命と物質との違いとは、差異の様態に違いにあるのでではないだろうか。即ち、物質の場合は、差異⇒同一性であり、同一性で終結するのであるが、生命の場合は、差異⇒同一性⇒差異という循環回路があるのではないだろうか。
 換言すると、物質は直線的であるが、生命は回帰的であるということである。物質の場合、差異が同一性化すると、そこでエネルギーの終焉するのであるのに対して、生命に場合は、差異が同一性化した後も、差異のエネルギーが残っていて、それが、新たに、同一性化を発現させるように思えるのである。わかりやすく、比喩的に言えば、差異が種であり、それが、同一性化するとは、生長することであるが、それがいったん終了すると、種を結実する。これが、いわば、再差異化である。そして、これが循環するのである。差異が同一性に対して過剰なのが、生命ではないだろうか。
 だから、ここで「気」について考えると、それは、過剰な差異エネルギーのことではないかと考えることが可能である。思うに、それは、物質を有機的に秩序化する情報エネルギーでもなくてはならないだろう。直感では、差異から同一性への変換のプロセスが「気」ではないだろうかと思われるのである。いわば、精神と物質との中間態が「気」のように思われるのである。即ち、「気」とは、純粋な精神でもないし、純粋な物質でもないが、精神に関係するし、物質にも関係すると考えられるのである。おそらく、量子に近いもののように思えるが、結局、両義的であり、精神の側面と物質の側面をもつということである。おそらく、造語した方がいいのかもしれない。とりあえず、メディア子(し)としよう。メディア子としての「気」である。それは、自己認識方程式では、⇒に相当するだろう。
 ということで、「気」=生命についての検討はここで終えることとして、次に、少し、広義の情について考察しよう。私が考えているのは、シュタイナーのアストラル体である。これは端的に、広義の感情である。
 直感で言えば、精神エネルギーである。すると、それは、超越エネルギーということになるだろう。そうならば、自我ないしは自己はどうなるのだろうか。
 自我とは、連続的同一性意識である。物質的意識である。それに対して、自己とは、差異共振的意識、精神的意識である。
 だから、情と自我/自己との違いは、エネルギーと意識の違いであると言えようか。言い換えると、エネルギー様態と知的様態の違いということになる。
 ならば、エネルギーと知とはどう異なるのだろうか。知ないしは合理性・理性とは、思うに、差異共振性と同一性との緊張関係にある認識であり、差異共振性を内包した同一性認識のことではないだろうか。つまり、差異共振的同一性認識が知ないしは合理性・理性のことではないだろうか。言い換えると、自己的自我認識である。
 ここには、差異共振エネルギーは包摂されているのである。つまり、情は包摂されているのである。そうすると、知・合理性・理性は、情を包摂した高次元的な認識様態と言えるのではないだろうか。
 問題は知・合理性・理性の高次元性であるが、それは、差異共振エネルギーがイデア・エネルギー、即ち、高次元エネルギーであるから、超越的なイデア界とその理念知を仮説したときに、そのエネルギー(情)が包摂可能となるだろう。
 このイデア界の理念知であるが、それは、エネルギー(情)に基づく、それに即した、仮説された高次元的知であり、この知と同一性の認識(現象認識)とが結合・融合したものになると考えられる。垂直性と水平性を結合させた知であり、端的に言えば、Media Pointの知(インテリジェンス)、Media Point Intelligence(略して、MPI)と言えるのではないだろうか。比喩的に、十字知性でもいいだろう。【ここで、バラ十字を想起した。七つの薔薇の花と黒い十字架との結合である。七次元ということだろうか。七次元とは、根源の三次元[(+i)*(-i)乃至は三柱の神]とMedia Pointの四元性(+i, -i, +1, -1)を足したものか?】そして、これが、新知(性)・新理性・新合理性であろう。
 これで、アストラル体である超越エネルギーと自己/自我知であるMedia Point Intelligenceとの違いを説明できたとこととしたい。
 最後に、まだ、不鮮明な感のある「気」の解明であるが、もう少し説明を進展させるならば、段階を設けると明快になるように思われる。即ち、生命エネルギーとしての超越エネルギーの段階と精神エネルギーの超越エネルギーの段階を分けることである。
 最初に、おそらく、生命エネルギーとしての超越エネルギー振動があり、それが、「気」となる。そして、その基盤の上に、新たに精神エネルギーとしての超越エネルギー振動が発動すると仮説すればいいと思われるのである。おそらく、両者は振動の質が異なるように思われるのである。簡単に言えば、生命エネルギーの振動がより低く、精神エネルギーの振動はより高いのでではないだろか。今はここで留めたい。

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ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』の中の情動に関する概念と、超越性との関係について

テーマ:検討問題

この主題は、つまり、ドゥルーズガタリ(以下、D/G)の情動論とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の超越性との比較は、ポスト・モダン(ポ・モ)の探った領域を確認することを意味するのである。
 D/Gの『哲学とは何か』は、凝縮され過ぎて、説明が不足しているような箇所が多いが、とても興味深い書である。
 とまれ、これまで、D/Gのポスト・モダンの差異を連続的差異として捉えて、自己認識方程式では、-1と先に考えたが、どうも、情動論を見ると、そこには、即非に近いものがあると思われるのである。
 たとえば、生成変化論があるが、それは、端的に、差異と差異の即非論によって明快に説明できると思われるのである。女性、子ども、動物に生成変化するというが、それは、即非論的である。
 しかしながら、根本的に、連続論であるのが欠点である。そこでは、フッサール現象学の超越論性が批判されている。そして、内在論を説くのである。即ち、内在平面の仮説を説くのである。
 だから、PS理論の観点から見ると、D/GはMedia Pointを連続化させているように思われるのである。つまり、超越性が連続化して、内在化されていると思われるのである。
 つまり、ゼロ度である。ゼロ度のエネルギー空間として、内在平面を仮説しているように思えるのである。差異の不連続性を消去してしまった空間である。
 そうすると、これは、ほとんど、ヘーゲル哲学になるように思われるのである。差異の連続化が同一性であり、それは、ヘーゲルの観念形式となるだろう。
 それに対して、(後期)デリダの場合は、超越性は否定しつつも、ゼロ度の不連続性を説いていると思われるのである。言うならば、超越性を否定したMedia Pointである。
 だから、D/Gの超越性とデリダの不連続性を結びつけると、哲学としてのPS理論にほぼなるように思われるのである。

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同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論

テーマ:差異と同一性

これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。
 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。
 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。
 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。
 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。
 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。)
 つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。
 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。
 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。
 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。
 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。
 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。
 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。
 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。
 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。
 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。
 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。
 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。
 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。
 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。)
 それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。
 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。
 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。
 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。
 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。
 思うに、プラトンイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。
 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。
 では、最後に、ヒンズー教インド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。
 まやかしとしての現象という考えでもある。仮象と幻想は似たものがある。しかしんがら、たとえば、オフィスの窓外に見える桜の木であるが、これは、仮象であるが、さらには、幻想であるのだろうか。
 幻想とは、空想的であり、非現実的であろう。しかし、桜の木は仮象とは言え、現実的である。だから、幻想としての同一性ということは言えないと思われるのである。
 補足として、仮象の同一性について考えると、仮象は変動・流転・流動等するので、流動仮象とも言えるだろう。だから、仮象としての同一性は、生成流転するものとなる。だから、幻想とまでは言わないしても、幻的とは言えるだろう。そうすると、仮幻象としての同一性となるだろう。
 この意味では、仮象はマーヤーと言えようか。