自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光

自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光新地球文明
テーマ:トランス・モダン・コスモス
東京はここ数日、寒い日が続き、冬のブルゾンを着たが、こんなのは初めてである。これは妙である。なにかある。
 人間の傲りを矯めるのは、やはり、自然の力なのか。知は無力なのか。ギリシア神話に限らず、多くの神話、民話、その他の伝承は、人間の傲りを戒めてきた。しかし、それが、破られたのである。
 思うに、人類は、新たな神話時代(「大洪水神話」時代)に突入したのだろう。一番の問題はやはり、ユダヤキリスト教ヤハウェである。ヤハウェ教(狂)である。
 これは、⇒-1の悪霊のようなものである。悪霊を崇拝する宗教(邪宗)が人類を狂わせたことは確かである。そう、自我・物質神なのである。確かに、物質科学・技術は発達したが、精神が退化してしまった。ポスト・ヤハウェ教文明の、「黙示録」的時代になったのだろう。
 Media Pointから発する太光の叡知に基づく新地球文明を創造するときになったのだろう。

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検討問題:同一性=物質化とは何か
テーマ:検討問題
考えると、同一性=物質化とはとても不思議なものに思えるのである。先に地震の予兆になる動物の反応のことを述べたが、動物は地震に関係する電磁波=超越エネルギーを「感覚」していると考えられる。超光が動物には「視える」のだろう。
 しかしながら、そのエネルギーは確かに、物質を形成しているのである。これをどう考えたらいいのだろうか。つまり、自然のもっている同一性現象とはどういう力学から発生するのか、である。アインシュタインのエネルギー公式のPS理論版を見るとわかりやすいだろう。

E=m(+ic)(-ic)⇒mc^2

である。両辺をmで割ると、

(+ic)(-ic)⇒c^2

となる。さらにcで割ると自己認識方程式となる。
 とまれ、思うに、右辺が物質形式でもあると見るべきではないだろうか。つまり、同一性である。すると、-1=同一性と齟齬を来たすことになる。これをどう考えたらいいのか。ここには、現象の実に不思議さ、霊妙さ、玄妙さがあるのではないだろうか。
 思うに、右辺は物質形式ではなくて、エネルギー形式と見るのが適切であろう。そして、物質形式はそのマイナスではないのか。つまり、-mc^2が、物質形式ではないだろうか。
 そうならば、マイナスに大きな意味があるのである。思うに、マイナスとはネガの世界であり、プラスがポジの世界である。ネガの世界は、影の世界である。もっとも、影は現象界では光である。
 ここは実に不思議である。ここでの思考実験から考えると、物質現象とエネルギー現象の二つがあるのであり、両者はマイナスとプラスの関係である。一種鏡像関係と言えるのではないだろうか。
 とまれ、物質とは何か、である。そう、エネルギーが共振から生まれたとすると、物質は共振を否定して生まれているのではないだろうか。どういうことかと言えば、自然は、二重様相であり、一方では、エネルギー現象であり、他方では、物質現象ではないのか、ということである。
 そして、近代科学・技術は、物質現象のみを扱い、本来のエネルギー現象を捉えていなかったことになる。しかし、20世紀になり、相対性理論量子論によって、物質現象からエネルギー現象へと対象が変換したと考えられるのである。つまり、物理学は、光科学=「精神」科学になったのである。
 思うに、19世紀末から20世紀初期ないしは前半において、哲学であれ、科学であり、芸術であれ、この変換が起こったと思われるのである。
 しかし、物質主義=唯物論に縛られているために、この変換の意味を十分に把捉していないと考えられるのである。哲学で言えば、フッサール現象学のブレークスルーを、ハイデガーは取り逃がしてしまったと思えるのである。先の考察からすれば、ハイデガーの言う本来的存在はエネルギー現象に、頽落した現存在は物質現象に相当すると考えられるのである。
 ここで、ハイデガーの本来的存在について考察すると、それは、まことに不思議である。ここの視点からは、エネルギー現象であるが、本来的存在は暗いのである。なぜなら、差異共振性がないからである。つまり、正に、右辺(mc^2)のみということになると思われるのである。
 これは、比喩的に言えば、暗い光、暗い超光ではないだろうか。(参照:D. H. ロレンスのdark sun) 本来、エネルギーは超光現象であり、「光」のはずである。しかしながら、本来的存在は暗いのである。
 この説明であるが、超光とは、思えば、差異共振の結果であり、自己と他者との一体となり、差異共振性がもはやないということを意味しているのではないだろうか。つまり、エンテレケイアである。
 だから、闇としての超光が考えられるのである。(参照:ダークエネルギーハイデガーの本来的存在=「光」現象とはそのような意味になると思う。すると、闇としての超光(エネルギー現象)と影としての光(物質現象)があるということになる。思うに、阿弥陀如来の無量光とは、イデア界の差異共振光=原超光を意味するだろう。
 そう、たとえば、天照大神であるが、それは、Media Pointが開いて、イデア界の原超光を得たものであろう。だから、天の岩戸とは、Media Pointではないだろうか。(また、プラトンの善のイデアは、当然、イデア界の原超光である。)だから、エネルギー現象はイデア界の原超光を反映・反照するとき、発光するということになるだろう。闇の超光と光の超光である。というか、暗い超光と明るい超光である。
 以上のように見ると、ハイデガーの本来的存在は、神秘主義の闇と通じるように思われる。黒い太陽ではないだろうか。
 しかし、これでは、まだ、奥の院には、当然、達していないのである。Media Pointが開いていないのである。(後期ハイデガーは、なんとか、Media Pointに達しようとしたのかもしれない。しかしながら、そのときは、水平性を喪失して、垂直性だけになっているように思える。)
 《光》をもたらさなくてはならないのである。物理学で言えば、相対性理論量子論的背景を与えることを意味するのではないだろうか。つまり、量子論相対性理論となるときに、真に《光》の理論になると思われる。
 神話で言えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスだけでは、暗い太陽であろう。つまり、+1である。しかし、イシスとオシリスの極性があるときに、原超光、即ち、イデア界の《光》、《太光》になるのではないだろうか。ならば、イシスなくして、オシリスの光はないということになるのである。イエスの光は、イシスなくしてないということになるのである。ここにプロテスタンティズムの問題があるだろう。
 さらに展開すると、なぜ、太母は、月をシンボルとするのだろうか。かぐや姫は月の女神、いわば、アルテミスに当たるといえよう。これは何だろうか。
 おそらく、これは、やはり、+1ではないだろうか。ここは、処女神を意味するのではないだろうか。いわば、単性生殖(処女生殖)である。すると、+1は太陽ではなくて、月である。そして、イデア界が太陽であろう。そして、Media Pointは、穴(ブラックホール?)である。では、-1は何だろうか。物質現象とはどういうシンボルをもつのだろうか。意外に天、天空ではないだろうか。つまり、+1が月や海や大地であり、-1が天空ではないだろうか。ギリシア神話で言えば、オリュンポスの神々ではないだろうか。
 そうならば、二つの天があるだろう。イデア界の天と現象物質界の天である。(創世記の冒頭は現象物質界の天の創造を述べているのだろう。)
 途中。

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地震前兆現象と電磁波:超越エネルギーと神々
テーマ:自然災害・人災:台風・地震津波・温暖化
以前触れたことがあるが、地震は、震源となるところが、前もって電磁波を出すので、予知は可能であると思われるのであり、それの調査研究を十分行っていないのは、問題があると思われることである。
 これは、実に科学的であり、どうして行わないのか、不思議である。また、動物の前兆行動であるが、やはり、電磁波に反応して、動物が超常的な行動をとるということは十分考えられることである。この点でも、研究が足りないと思われるのである。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、電磁波は超越エネルギーなので、それは、Media Pointの開いていると考えられる動物はキャッチすると考えられるのである。人間は同一性-1に傾斜しているので、超越エネルギーを把握できないと思われるのである。中には、Media Pointが開いていて、敏感・過敏に感じる人がいるだろう。
 ついでに言えば、超常現象や霊的現象とは、超越エネルギー現象の視点から検証されるべきだと思われるのである。これは、当然、イデア・エネルギー、魂のエネルギーの問題でもある。私は、どうも、ある種の運命というものがあるように感じている。そう、古代人ならば、神々と表現したが、確かに、神々は存していると思うのである。
 では、神々を科学的に説明するとどうなるのだろうか。私は魂があるとほぼ確信している。それは、虚数の対極性である。陰陽が魂である。いわば、陰陽魂、陰陽イデア、陰陽イデア魂である。この陰陽イデア魂(略して、イデア魂)は、振動していると考えられる。思うに、出生するとき、陰陽イデア魂は、陰陽に分裂して、陰イデア魂と陽イデア魂に分離して、それぞれ、人格になるのではないだろうか。前者は女性魂であり、後者は男性魂である。しかしながら、これは、生物的性とは必ずしも一致しない。つまり、精神的性と肉体的性は必ずしも一致しないということである。
 とまれ、いかにも、プラトンの『饗宴』の発想であるが、陰イデア魂と陽イデア魂がイデア界ないしは、Media Pointにおいて、ひきつけあうのではないだろうか。これが、本来のエロースではないだろうか。正に、イデア界的共振性としての引力である。
 しかしながら、このイデア魂の強度が強いと、現象界よりは、直接、イデア界にひきつけられるのではないだろうか。詩人のヘルダーリンは、正に、そのような精神の持ち主であったのではないだろうか。ロマン主義神秘主義等もそのような傾斜があると思うのである。
 ここで、暫定的に仮説すると、イデア・コスモス(イデアコスモロジー)があり、それは、ポリフォニックな音楽宇宙であろう。そこに、現象の原型ないしはプログラムがあるのではないだろうか。イデア・プログラムである。オカルト主義が言うアカシャ年代記はそこにあるのではないだろうか。わたしは今は運命論的である。

p.s. 後半、神々から魂の話になってしまった。確かに、神々と魂は関係している。極言すれば、魂とは神々である。ならば、神々は数はどれくらいなのだろうか。問題は、イデアとMedia Pointとの関係にあると思う。イデアのMedia Point変換があるだろう。これは、個化と言っていいだろう。魂というのも、この産物かもしれない。おそらく、イデア界はシンプルだと思う。Media Point界(略して、MP界)があると思うのである。今は、思いつくまま書くだけだが、プラトンが『国家』で述べている死者の国(p.s. 彼岸であったか)のことであるが、それは、どうやら、MP界のことではないだろうか。それが、カトリックで言う煉獄ではないだろうか。地獄もそこになるのではないだろうか。ちょうど、天上界と地上界の中間界として、MP界があるのではないだろうか。シンボル的には、山頂がそれに当たるのではないだろうか。須弥山、オリュンポス山高天原、とうとう。
 とまれ、究極的に言うと、森羅万象は、神々の仮面であろう。神々の多様体であろう。Media Pointに、個別の情報があるように思われる。つまり、イデア情報アーカイブである。イデア図書館である。遺伝子の情報もここにあるのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。

地震をカエルが予知?=数十万匹が大移動−中国四川省
 【香港13日時事】香港紙・リンゴ日報などは13日、中国四川省で12日起きた大地震の前に、同省の綿竹市で数十万匹のヒキガエルが一斉に移動するという異常現象があったと報じた。地元住民は「何かの凶兆ではないか」と不安を感じていたという。(時事通信)

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西洋文明と-1:同一性傾斜をもつ西洋一神教文明とMedia Pointを内包する東洋文明
テーマ:検討問題
後で検討したいが、西洋文明ないしは文化の-1=同一性の傾斜であるが、これが、現代文明・文化を行き詰まらせていると考えられる。資本主義も内的には、差異共振性をもつが、同一性価値の支配によって、非合理主義的に(悪魔的に)破壊的になっているのである。思うに、私見では、西洋言語の人称性にも問題がありそうである。
 とまれ、-1=同一性の傾斜のために、西洋文明は東洋文明・文化が本来的にもっているMedia Pointを抑圧しているのである。だから、トランス西洋文明としての新東洋文明が考えられなくてはならない。西洋文明を包摂した高次の新東洋文明である。

p.s. -1=同一性への傾斜(ユダヤキリスト教一神教性=ルサンチマン)があるために、たとえば、イタリア・ルネサンスで生起した差異ないしは Media Pointの活性化が、同一性主義(近代合理主義・近代的自我)に抑圧されてしまったと考えられる。既述したように、この差異と同一性の矛盾的二重性が、西欧近代文化・文明の実体であると考えられる。言い換えると、二重人格(ジキルとハイド)としての近代西欧文化・文明なのである。悪魔の様相と天使の様相をもっているのであるが、前者が後者の影に隠れて、主導的なのである。天使の仮面をつけた悪魔としての近代西洋文化・文明である。
 私見では、一人称は自我人称、即ち、同一性人称ではないだろうか。これが主導的になって、差異を否定すると思われるのである。そう、「わたし」の問題である。結局、自我・同一性の「わたし」と自己・共一性の「わたし」がある。これが、西洋言語では、連続化していると思うのである。日本語は本来、自己・共一性言語であり、「わたし」は、他者と共振しているのであり、そのために、とりわけ、「わたし」という語を使用しないと考えられるのである。
 結局、この同一性主導性が今日、非合理主義性をもたらしているのであり、差異主導性が必要とされているのである。差異主導により、同一性傾斜は制御されて、差異共振性における、ないしは、基づく、同一性となると考えられるのである。言い換えると、差異主導によって、差異と同一性とのバランスを取れるのである。しかしながら、差異と同一性の発展的な対立と言ってもいいだろう。この対立が必要である。自由主義は、この中において肯定されるべきであろう。そして、民主主義は、差異共振性となるだろう。資本主義も差異共振資本主義になるだろう。差異共振資本自由主義となるだろう。

p.p.s. 近代西洋文化の偽善性であるが、それは理論的にどう説明できるだろうか。同一性=自我はどうして、偽善的になるのか。そう、同一性=自我の優越性の発生の力学は何か。同一性価値を優位に、差異価値を劣位にする力学であるが、それは、いわば、鏡像的価値に拠ると考えられる。
 鏡像を優位とする価値観の発生が問題とされなくてはならない。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、幼児の身体的脆弱性・虚弱性があり、そのため、差異における苦・悲に対して、身体的に積極的に対応することができない。つまり、身体的に劣位にあるのである。それに対して、差異共振エネルギーは過剰である。
 思うに、この過剰な差異共振エネルギーを同一性へと転換させるのが仕組みがあるのではないだろうか。精神の過剰と身体の劣弱さがあり、そこにで、後者を乗り越えるために、前者は、後者を否定して、同一性価値を仮構(虚構)するのではないだろうか。フィクションである。一種、幻想、妄想である。ファンタジーである。
 身体=差異の劣位を乗り越えるために、同一性価値の優位というフィクションを人間は形成するのではないだろうか。それが、-(-i)=i^2=-1ではないだろうか。差異=他者である-iを否定して、同一性化するのである。他者=差異の否定行為が、他者=差異の場所に鏡像を映現させて、それを代償として、自己同一性化するのではないだろうか。ここでは、共振ではなくて、否定的同一化があるのである。鏡像と同一性との融合があるのである。これは、当然、ショートである。つまり、自己同一性=自我とは、同一性のショートなのである。「自己中心主義」的な盲目である。自我狂気である。
 とまれ、この否定が自我意志となっているのである。では、この否定はどこから生まれるのだろうか。それは、差異共振性のアンバランスからではないだろうか。つまり、+iと-iがあるが、両者がアンバランスで、-iが+iより劣弱なのである。この傾斜がデュナミスではないだろうか。この本源的不均衡が、現象において、否定の力学を発生させるのではないだろうか。整理すると、確かに、差異共振性があるとは言え、不均衡性があるために、成長において、否定性が発生して、同一性に傾斜するということではないだろうか。
 そして、この否定性=暴力に対しては、根源の差異共振性を取り戻す必要があると言えよう。ここで、知恵・叡智が問題となるのである。イデア界の叡智が必要なのである。そう、思うに、本来、女性の方が、男性よりも、こちらに近づいていたと考えられる。ソフィア(叡智)は、本来、女性的である。
 だから、正確に言えば、否定性=暴力性は父権文化、父権一神教文化のものである。本来、母権文化、母権多神教文化は、この否定性=暴力性を差異共振叡智によって制御していたと考えられるのである。
 後で、もう少し丁寧に整理したい。

3p.s. まだ、同一性=自我の優越主義が十分に説明されていないので、後で再考したい。

4p.s. 同一性=自我の優越志向性は既に説明されている。精神の過剰性と身体の劣弱性との非対称性・不均衡性があり、身体の劣位を「意識」上、乗り越えて、「意識」を優位化する力学で説明できるのである。

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ゼロとは何か:+1と-1と±0:ポスト・モダンとハイデガーとトランス・モダン
テーマ:プラトニック・シナジー理論
既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガー存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と- 1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0 である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+ 1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダ差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。とまれ、後で再考したい。