新母権主義と父権・母権の大調和主義の関係:自己意識と他者意識:精

新母権主義と父権・母権の大調和主義の関係:自己意識と他者意識:精神的身体と精神エネルギー


テーマ:差異と同一性


先に、同一性主義と差異共振主義の相違を明確にしたが、そうすると、それ以前に述べた父権主義と母権主義の大調和主義という私の考えは、変更を受けるのではないだろうか。この点を検討したい。
 大調和主義以前には、新母権主義を唱えていた。新母権主義と大調和主義ではたいへん異なるだろう。
 結局、直近の考察は、Media Pointにおいて、イデア極性の傾斜によって、同一性主義が発生するということであった。そして、それとは別に、本来の差異共振主義があるということであった。即ち、Media Point(以下、mp)を境界にして、一方(意識)では、同一性主義(同一性)が生起して、他方(無意識)では、差異共振主義(差異)が生起するということであった。【これは、心性の分裂である。問題は前者は言語をもつ自我意識であり、それが、無意識の差異共振性を抑圧排除することである。自我意識は言語意識を形成できるが、無意識の差異を包摂できないのであり、不十分な自己なのである。つまり、自己が自我意識主義であると、無意識の差異を包摂できないので、分裂したままになるということである。これが、心の病気の一つの典型ではないだろうか。自己の他者を肯定する必要があるのであるが、それは、他者を明確に確認する必要があるのである。つまり、トランス自我の自己意識形成が必要であるということである。
 問題は、思うに、他者は身体ないしは身体に関係するものではないかということである。他者を内的身体と呼んだりしたのであるから、身体に関わるのである。しかし、この身体は物質身体なのだろうか。後で検討したい。】
 言い換えると、自己は一面では、同一性であり、他面では、差異であるということである。しかしながら、同一性主義である限り、差異は否定されたままである。問題は差異の肯定が意味することである。
 差異(差異共振性)が肯定されたとき、同一性主義は当然、解体する(脱構築)。しかしながら、同一性自体は消滅はしない。何故なら、同一性は、意識の主要な様相であるからである。つまり、同一性中心主義のみが解体して、同一性は保持されるということである。つまり、差異の肯定によって、同一性と差異とが両立することになるということだと思われるのである。
 これを以前は、同一性を包摂する差異と呼んだのである。そして、これが新母権主義と述べたのであるが、先には、父権主義と母権主義の大調和主義を唱えたのであるが、それは、どういうことだろうか。
 同一性中心主義を脱構築して、同一性を包摂する差異が発現しても、思うに、同一性傾斜は変わらないのであるから、父権主義が反復することになるのであり、そのために、単に新母権主義だけでは、不十分なので、父権主義と母権主義の大調和主義が必要であるということだと思う。
 新母権主義と大調和主義の関係をどう考えたらいいだろうか。前者に即せば、差異の肯定によって確かに、同一性主義は解体する。同一性中心主義はありえないことになる。しかしながら、自己差異傾斜=同一性傾斜という事態が残っているのだから、常に、それを解体して(永遠解体、永遠脱構築)、差異の肯定へと志向する必要があるだろう。
 父権主義と母権主義の大調和主義とは、結局、新母権主義と同義であると言えよう。新母権主義であることは、反復生成する父権主義を永遠脱構築するということであるのである。ということで、本件は解明された。自説の齟齬はなかったのである。
 さて、上記の括弧内のことであるが、他者差異と身体の関係を考察しよう。これも一つの核心的問題である。
 これまで、他者差異を内的身体と考えてきたが、より詳しく精査したい。結局、差異共振性と身体の関係の問題にもつながると言えよう。
 これまで、差異共振性を精神的身体と考えてきた。そう、これは、物質的身体、言い換えると、同一性的身体とは異なるのである。同一性主義ないし同一性は自我と同時に物質身体を形成すると考えられる。-1とは、自我且つ物質身体の形成を意味するのである。
 それに対して、+1は、差異共振性であり、且つ、精神的身体の形成を意味すると考えられるのである。【精神的身体とは、言い換えれば、魂と言っていいだろう。】とまれ、端的に、他者差異-iとは何か。これまでの考えでは、+iは原知性であり、-iは原身体である。【思うに、アリストテレスの質料の根源は、この原身体のことではないだろうか。】
 しかしながら、他者差異-iを原身体としなくて、端的に、他者の原知性と考えることも出来るのではないだろうか。他者の意識である。そう、他者の意識とは自己を知る意識ではないだろうか。少なくとも、自己を対象とする意識であろう。どうも、このように考えた方が、積極的であるようだ。
 つまり、自己意識と対になる他者意識が他者差異ではないか、ということである。ならば、どうして、私は、自己差異と他者差異との共振を精神的身体と考えるのだろうか。
 思うに、それは、同一性(自我)における対象としての物質身体からの類推で、他者差異との共振を精神的身体と考えてしまうのではないだろうか。しかし、これはどれほど意味があるのだろうか。
 思うに、差異共振エネルギーが、この精神的身体と等値なのではないだろうか。自己差異(自己意識)と他者差異(他者意識)が共振するとき、エネルギーが発動する。このエネルギー様態を身体として、つまり、精神的身体と感じるのではないだろうか。言い換えると、精神エネルギーである。そう、この精神エネルギーが、内的身体を形成すると考えていいのではないだろうか。例えば、「気」とは、この精神エネルギーの一つであると思われる。また、霊感と呼ばれるものも、この一種であろう。そして、直感もこれの一種であろう。勘もこれで説明できよう。私がコスモスと呼ぶものも、この精神エネルギーが賦活された様態なのではないだろうか。また、プラトンのエロースもこれで説明できよう。
 私のイメージでは、精神エネルギーが内的身体を形成するが、この内的身体が個々においては、内臓となったり、神経となったり、血液となったりするのではないだろうか。
 そう、精神エネルギー(差異共振エネルギー)が、いわば、情報エネルギーであり、物質身体を構成するのではないだろうか。
 この場合、情報とは、精神エネルギーの振動ではないだろうか。電波を見てわかるように、その周波数には、多様な情報の信号が入っているのであり、それが、端的には、人体の形成する情報であろう。つまり、イデアとしての遺伝子、ないしは、原遺伝子が、精神エネルギーに込められていると考えられる。そして、DNAとは、原遺伝子の物質的表現であると思われるのである。本来は、遺伝子エネルギーがあるのであり、それが物質的に発現したのが、DNAではないだろうか。
 後でさらに精緻に考察を続けたい。