唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論

唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論


私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や日本総体の劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活すると考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、宗教やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取りこめることができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。