日本における父権文化の形成について:二つの「天」の差異:母権統制

日本における父権文化の形成について:二つの「天」の差異:母権統制的父権制と不連続化による新母権化


テーマ:日本伝統文化:神話・宗教・民俗・芸術他


思うに、シャーマニズム儒教の関係が、東アジアにおける精神経済=精神文化(この場合は精神政治という方がより適切であるが)における、キーポイントになる。【p.s. この考えは以下の考察において、破棄された。】
 

儒教前史

儒(じゅ)の起源については胡適 が論文「説儒」(1924年 )で「殷 の遺民で礼 を教える士 」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭 、特に葬送儀礼 を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン )が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静 は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズム を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。」


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99


やはり、直感では、古代ギリシア文化の動きと類似したものを感じる。ニーチェの視点で言えば、アポロとディオニュソスである。

 仮説として、アポロとディオニュソスは、Media Pointの極性とする。アポロは同一性面であり、ディオニュソスは差異面である。両者一体である。そして、同一性面が中心化すると、父権制が現われるだろう。同一性固定化である。この中心がゼウスと考えられる。

 だから、Media Pointの同一性極の帰結としての父権主義が考えられる。

 問題は、この父権化が、母権制の一環なのか、否かである。これは、言い換えれば、多神教一神教の関係の問題である。この問題は既述済みである。両者は不連続である。母権制父権制は不連続である。一神教父権制の場合、同一性への傾斜があり、それが、同一性固定化=同一性主義を生んだということになる。

 先に述べたように、母権制父権制が、連続的に重なる事態が文化史=精神政経的に生起したと考えられる。これは、混淆であり、錯綜である。

 だから、古代ギリシアにおいても、同様のことが起ったと考えられる。アポロとディオニュソスは、本来、Media Pointの極性であるが、それが、父権制によって、同一性へと傾斜していると考えられる。だから、アポロとアポロ主義(古典主義)は異質なものである。つまり、同一性と同一性主義はまったく異なるということである。

 この事態を明確に命名する必要がある。これまでは、母権統合型父権制と呼んできた。そう、母権統制的父権制と言う方が、的確である。これを使用する。

 しかし、問題は、母権統制的父権制において、本来の母権制父権制とは異質であり続けるということである。母権制父権制にとり、他者・差異なのである。これを押さえておく必要がある。

 とまれ、以上から、本件のシャーマニズム儒教との関係は、母権統制的父権制にあると言えよう。

 では、問題は、さらに進んで、父権制とは何かということになる。西洋では、アーリア民族やセム民族がもっていた精神政治文化である。遊牧民族が中心と言えよう。しかし、神話学的には、バビロニア神話に見られるような父権神話が基盤である。

 これは、男性のもつ同一性傾斜に基づく神話であると考えられる。母権神話の太母を英雄が殺害して、天地創造を行うパターンである。一言で言えば、英雄神話である。そして、この帰結がヤハウェであると考えられる。

 この父権神話において、形而上学的に、権威の中心になったのが、「天」である。「天にまします我らが父よ」である。問題は父権神話の「天」とシャーマニズムの「天」は異質なものであることである。しかし、ここで、混淆・連続化が生まれたと考えられるのであり、「天皇制」の問題の根因もここにあると考えられる。【また、これは、イデア論とも関係している。通俗的イデア論の理解は、父権的な「天」の発想である。それに対して、プラトニック・シナジー理論イデア論は、母権制の「天」の発想である。】

 端的に、父権神話の「天」とは何なのか。哲学的には、同一性主義(ロゴス中心主義)だと考えられる。父権制とは同一性傾斜を根源にもつのであるから、父権神話の「天」はそうなると考えられる。

 それに対して、シャーマニズムないしは母権制の「天」は差異共鳴性であると考えられる。だから、二つの「天」はまったく異質なのである。このことはいくら強調しても強調し過ぎることはない。【英語で言えば、universeないしはspaceとcosmosの違いになるのではないだろうか。】

 因みに、ここで、ポスト・モダン哲学について言うと、その同一性主義批判は、確かに、父権的「天」の同一性主義を批判、解体したが、同時に、母権的「天」の可能性を排除してしまったと考えられる。とりわけ、デリダ哲学においてはそうである。ドゥルーズガタリ哲学においては、『哲学とは何か』において、コスモスが頻出するが、それは、母権的「天」を指していると考えられる。【ドゥルーズガタリの場合、差異と同一性を連続化させていて、差異のもつ超越性が、コスモスという形で、紛れ込んでいると言えよう。】

 では、本件にもどって考えると、日本における父権文化の形成とは、やはり、大陸から父権文化が侵入して形成されたと考えるのが妥当であろう。しかし、韓国・朝鮮文化は、父権文化ではない。

 直感では、やはり、中国の国家主義が根因である。そう、儒教というよりは、国家体制ではないのか。端的には、律令制である。これが、日本における父権文化の基盤ではないのか。

 儒教は後付け的な原因に過ぎないと思う。根底に、中国国家主義律令制があると思う。

 では、律令制とは何なのか。


律令制の起源は中国にあり、土着してその地を支配する貴族・豪族に対し、皇帝がその上にたつ強力な支配権力を確立するために生まれた。北魏や唐を例にとれば、令(れい)にある均田法 では土地の公有化をはかり、国家によってそれを配分することを規定し、貴族・豪族たちの土地所有を制限したり、禁じている。また法による国家統治をおこなうため、皇帝に奉仕する官僚集団をつくりあげた。こうした律令の法体系を基礎に国家の諸制度があり、それを実行する政治組織が皇帝を頂点とする中央集権的な国家体制である。」

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533842/content.html

エンカルタ百科事典ダイジェスト


端的に、皇帝・中央集権的国家主義が母体にある。【これが、東アジアの、ないしは、アジアの母体にあるだろう。しかし、それより根源には、母権制があると考える。】
 皇帝中心の中央集権国家体制とは、やはり、精神政治文化的には、当然、父権神話がある。つまり、中国における父権民族の侵入が考えられるように思うのである。今はそう作業仮説する。結局、東アジアに侵入した父権民族(おそらく、父権的遊牧民族)が、律令制の遠因である。
 父権民族は、同一性主義であり、これが律令制の基盤だと考えられる。そして、父権民族であるが、これが、日本にも侵入したと考えられる。この父権民族が、「天」の思想を利用して、天皇制を形成した考えられる。
 では、日本に侵入した父権民族とは何か。すぐ思いつくのは、騎馬民族説である。これを一応評価して考えれると、父権的騎馬民族が、シャーマニズムアニミズム古神道)、道教儒教、仏教等々を利用して、天皇制を形成したと思われる。直感では、古墳時代が怪しい。
 とまれ、今の段階では、想像をたくましくして、考えると、日本に侵入したのは、失われたユダヤ民族かもしれない。ユダヤ教が侵入した可能性があることになる。
 とまれ、なんらかの父権民族が日本に侵入して、中国の律令制を真似て、父権体制=(天皇制を利用した)中央集権体制を形成したと推察されるのである。(もっとも、もともとは、中国のような強固なものではなかったと考えられるが。)
 そして、かれらが、それ以降の日本の精神政治・経済の支配者となったり、支配者と関係したように思う。今日の官僚制の原因はそこにあると考えられる。内なる父権制である。
 最後にどうして、内なる父権制が今日でも強固であるのか、一言述べたい。
 それは、母権統制的父権制に存するのではないだろうか。これこそ、民衆支配の強力なシステムである。先に述べたように、母権制父権制との連続化・混淆形態である。この連続性があるために、父権的支配、「貴族」=官僚の支配を断ち切れないと考えられるのである。
 この点から見ると、不連続的差異論は画期的である。両者の連続性を切断して、母権制父権制を別々にしたのである。絶対的差異を取り戻したのである。
 東アジアの目覚めは、母権制父権制の再不連続化にかかっていると言っていい過ぎではないだろう。これは、精神政治進化である。
 そして、プラトニック・シナジー理論は、新母権制に基づく、差異共鳴原理を説いているのであり、同一性主義資本主義から差異共鳴資本主義への変換原理を提示しているのである。
 

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参考1:
律令制
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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律令制(りつりょうせい)は、主に古代東アジア で見られた中央集権 的な統治制度である。律令体制や律令国家とも呼ばれることもある。

なお、律令制とは、律令に基づく制度を意味する用語であり、律令自体については律令 の項を、律令の持つ法典としての性質などについては律令法 の項を、それぞれ参照されたい。


基本理念

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

律令制では、王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓 )に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税 ・労役 ・兵役 が同じく一律平等に課せられていた。さらに、こうした統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令 と格式 が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚 機構が構築されていた。この官僚機構は、王土王民理念による人民統治を実現するための必要な権力装置であった。

[編集 ] 基本制度

東アジアに特有の律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、概して次の4つの制度が統治の根幹となっていた。

一律的に耕作地を班給する土地制度
中国では均田制 、日本では班田収授制 (班田制)として施行された。王土王民思想を最も反映していたのがこの土地制度である。王が自らの支配する土地を、自らが支配する人民(百姓 )へ直接(中間支配者である豪族 を介さずに)班給するというものであり、儒教的な理想を多分に含んでいた。中国では、土地の班給よりも租税の確保が重視されていたが、日本では土地の班給が重視されていた。
個人を課税対象とする体系的な租税制度
中国や日本では租庸調 制として施行された。人民は耕作地班給の代償として納税義務を負った。土地の班給が人民一人一人に対して行われたので、課税も個人に対してなされた。これは、律令国家による人民支配が非常に徹底していたことを物語っている。また、課税は恣意性の介入を排除して、誰に対しても同じように一律に行われた。
一律的に兵役が課せられる軍事制度
中国では府兵制 、日本では軍団制 として施行された。耕作地班給の代償として兵役 の義務を負ったのである。ただし、唐代の江南地方では兵役がほぼ免除されていたり、日本では東国(関東 )ばかりが防人 の兵役義務を負っていたなど、必ずしも一律的に兵役が課されていないという実態があった。
人民を把握するための地方行政制度
中国では郷里制 、日本では国 郡 里 制を採用した。支配を貫徹するために、末端の近くまで官僚が体系的に配置されていた。この制度の下で、班給・課税・徴兵の台帳となる戸籍 ・計帳 の作成が可能となった。逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となったのである。

以上の4制度を漏れなく実施するために、律令国家は、非常に精緻な律令法典と、それに基づいた高度に体系化された官僚制を必要とした。

律令法典
社会規範を規定する刑法 的な律と社会制度を規定する行政法 的な令が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての格および律令と格の施行細則としての性格を持つ式が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。律令法典は、法を統治の基礎に置く法家 の思想を背景としていた。
官僚制
天子の意思命令を確実に具現化するため、各官庁と官僚の責任と任務を明確に区分し、精密に規定された階級に従って、命令を実行に移していく官僚制が、高度な体系の下に構築された。各官庁内では、任務や責任の重さによって、官吏を四段階に区分することを原則としていた。これを四等官 制という。

この他、中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度(駅伝制 )なども、律令制を構成する制度として採用された。

上記のような国家体制を、総称して律令制という。中国史上では、隋 から唐 にかけての王朝で顕著であり、周辺の東アジア諸国では7世紀 後期〜9世紀 頃に、中国由来の制度として広く施行された。中国でも周辺の東アジア諸国でも、10世紀 以後、上記のような律令制は死滅もしくは形骸化したが、その後も法形態としての律令は、中国や日本やベトナムなどで存続し続けた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6 


参考2:
■ 律令〔りつりょう〕官制の沿革

http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_enkaku.html


官制大観_logo 1K


参考3:


律令法 りつりょうほう

律令格式 (きやくしき) などの制定法および平安時代になって律令を基礎にして成立した各種の慣習法をふくめて,律令法という。大化改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系である。

律令法の階級性]

 律令法は,大化改新によって支配権をにぎった畿内および近国の貴族層が,従来のように地方族長を媒介として全国を支配するのではなく,官僚機構によって人民の末端にいたるまで統治するための法であった。したがって貴族制的な身分秩序を法によって確立することが律令法の骨格となっている。律令法の身分制度は人民を良・賤 (せん) に二大別することを特徴とし,両者の中間に大化前代の部民 の後身である品部 (しなべ),雑戸 (ざつこ) の身分がおかれた。 賤民 の身分は,陵戸,官戸,家人 (けにん),公奴婢 (ぬひ),私奴婢の 5 階層に区別され,各階層は同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度によって隔離されていた。この複雑な賤民の等級は,唐令の賤民制度の継承であるが,それは中世武家法 における賤民制度とちがった律令法の特徴をなしている。良民は階級的には貴族と平民に二大別されているが,両者の区別は法的には明確ではなかった。ただ五位以上の位をもつものの経済的・政治的特権は法によって保証され,また有位者は一般に課役その他の義務を免除されていた点で,租,庸 (よう),調,雑徭 (ぞうよう) などの課税および兵役の義務を負っていた一般平民と区別されていた。律令法は貴族層が,その特権と支配を維持するための法であるから,賤民制度をふくめた全体の身分の体系は,法によって明確に規定しておく必要があった。

 律令法によって規定された身分秩序において,独特の地位を占めているのは,天皇 の地位である。律令においては,天皇の地位,権限その他については,なんらの規定がない。これは天皇が法を超越した存在と考えられていた結果であって,天皇の政治的重要性と矛盾するものではない。律令制には一種の罪刑法定主義の原則があって,裁判は成文の法規に準拠しなければならなかったが,天皇は法によって拘束されない存在であった。律令法において,天皇の地位,権能について規定がないのも,それが国家的祭祀の執行など大化前代以来の宗教的機能をもっていたことと,専制君主的性格をもったことの結果であって,法を超越した存在と考えられていたからである。

 天皇を除けば,すべての身分・階層が法のもとに拘束される原則が支配している点で,律令法は一種の法治主義の特色をもっているといえよう。しかしこの原則は律令法の階級性を否定するものでなく,たとえば現実の刑の適用にみられる貴族の特権的地位の保証は,律令法が貴族階級のための法であったことを示している。刑罰について特別の斟酌 (しんしやく) をうける六議 (ろくぎ) の制度のみならず,有位者がその位階に応じて罪の軽減をうけたり,また現実には,八虐 (はちぎやく)・殺人などの重罪を犯さないかぎり一般の刑罰をうけることがなかったことは,その一例である。

[国家機構と官制]

 かかる特権的な貴族層が,全国の人民を直接に支配するためには,中央から地方の末端にいたるまでの体系的な行政・司法の機構を必要とした。武家法と異なる律令法の特色の一つは,この体系的な国家機構および官僚制度の精密な規定にあった。それはいちじるしく形式主義的な官制となってあらわれている。中央政府は二官,八省,一台,五衛府で構成され (二官八省 ),各省は職,寮,司の名をもった若干の官庁をしたがえている。これらの官庁は原則として長官,次官,判官,主典の 4 等級の官吏で構成され,それぞれの権限も法によって規定されている。この精神は,地方政府組織の末端にいたるまで貫徹し,全体の官僚機構は,相互に秩序ある階層制によって連結された官庁から成っていた。その形式主義的な機構は,行政の慣行と経験に基づいて形づくられた武家法の官制といちじるしく相違しており,律令法の基本的特徴の一つをなしている。律令法では,行政官と司法官の区別はなかったから,以上の行政機構は,同時に司法の体系であるのを特色とした。下級の裁判所は,地方では郡司,京では諸司であり,その上に地方では国司,京では刑部省があり,最後に太政官天皇があった。裁判所の管轄は刑の軽重によって区別され,郡司は笞 (ち) 罪のみを決し,在京諸司は笞罪,杖 (じよう) 罪を決し,国司は杖罪,徒 (ず) 罪,刑部省は徒罪,太政官流罪天皇は死罪を決するという規定であった。

[唐の律令の継受]

 以上のような律令法の特色は,大化改新後の公地公民制に基づく新しい国家組織そのものの必要から生まれたものであるが,同時に律令法が中国古代法典を母法として継承したことにも理由があった。律令法は形式,内容ともに主として唐の律令を模範とした法制であって,この時代の東洋で一種の世界法の役割を果たした唐の律令の日本における分枝とみるべきである。したがって継受法としての律令法と,大化前代の固有法との間には断絶があって,固有の慣習法を基礎として成立した武家法制とは性格を異にする点が多い。ただ唐の律令を継受するにさいして,日本独自の条件を考慮に入れて重要な修正を行っている事実も注意する必要がある。たとえば,唐の均田制を模範とした日本の班田制 は,刑法や官制などとちがって,従来の土地所有制度と調整しなければ実行しがたい制度であるが,日本の令では唐令を意識的に修正して実施した形跡がみえる。また大化前代の土地私有制の発展段階の相違が考慮されていることも明らかである。唐田令では,(1) 官人永業田および賜田は無制限に売買・貼 (ちよう) 賃 (質入れあるいは賃貸のこと) の自由を有し, (2) 庶人の永業田は特別の場合には売買を許され, (3) 口分田 (くぶんでん) は原則としては売買を禁じ,例外的にこれを許し,(4) 諸田地の貼賃なども,原則的に禁止されるにとどまったが,これに対して日本令では,すべての田地は絶対にその売買を禁止し,とくに 1 年間の賃租を許しているにすぎない。かかる相違は,国家権力の強さ,土地私有性および交換経済の発展の状態などの相違を反映させたものとみられる。田令ほど重要でない修正は令の各所にみられるが,それに対して律は唐律模倣の傾向が顕著であった。

 このように継受法としての律令法が 7 世紀以降長期にわたって強行されたことについては,国家権力の強大さ,人民一般の政治的無権利を第一にあげねばならぬ。それは律令法の行政組織の最末端にある郷里制 にもあらわれている。国・郡・里の里は,50 戸をもって構成されたが,この村落制度は画一的・行政的につくりあげられたもので,大化前代からの自然発生的な集落とはまったく関係のない組織であった。地方の国民生活のなかでは,〈村〉は基本的な共同体の単位であったが,それが,法的には全然認められていない事実のなかにも,律令法の特徴がみられる。したがって律令法のなかに,日本の古代社会の内部に行われていた法慣行を見いだすことは困難である。記紀,《隋書》倭国伝,祝詞 (のりと) などの資料によっても,大化前代の地方族長社会においては,神判制度や宗教からまだ完全には分離しない形での法が存在したはずであり,また邪馬台国 (やまたいこく) でも公的な秩序・権威の維持のための法が存在したとみられるから,大和国家の時代になれば,刑法を中心とした法が,中国古代法の影響をうけながら不文法の形で発展していたことが推測される。唐の律令の継受も,このような土台のうえに可能となったのであるが,秦・漢以来の歴代の専制主義的法制を集大成した唐の律令と大化前代の日本の法とでは,段階の差が,あまりにはげしかったので,律令法は継受法としての性格を強くもたざるをえなかったとみられる。

儒教的性格]

 律令法の継受法としての性質を強調するあまり,それが日本の法制史上に果たした役割を過小に評価するのは,事実と合致しない。 《正倉院文書》その他の資料によると,律令法の公法的部分は,奈良時代においては,継受法とは考えられないほど実際に施行されていた。したがって,中世の武家法の基礎となった慣習法も,純粋な固有法ではなく,律令法を媒介として成長した固有法であった。また律令法は単に法としてばかりでなく,思想史的にも重要な意味をもった。律令法の基本思想は,母法と同じく,儒家と法家の思想であったが,ことに儒家の思想は,日本の律令法でも指導的な意義をもっていた。養老の名例律が,不孝を,不義などの罪とならべて,八虐の一つとし,祖父母・父母,夫の祖父母・父母をなぐり,また殺傷する罪を悪逆のなかにいれて,恩赦のさいにもこれをゆるさない規定を設けているのは,儒教の道徳を法制化したものにほかならない。大化前代からの家父長制家族の発達は,このような法を受用する基礎をつくったことは事実であるが,律令法は儒教の精神によって,親または家長の権力を強大にし,同時に女性の法的・社会的地位をいちじるしく低める作用をした。

律令の改変]

 律令法は,奈良・平安両時代を通じて国家の基本法であることに変りはなかったが, 10 世紀の《延喜式 》の制定公布の時代前後を境として,重要な変化がみられた。摂関政治院政などの新しい政治形態の出現,班田制の衰退と荘園制の発展,律令法的身分秩序の解体などにみられる各種の歴史上の変化によって,律令法に基づく新しい慣習法が律令法の各分野で形成されてきた結果である。これを公家法 の時代として区分することができる。たとえば,官職制度のなかにも各種の重要な変化がおこったが,そのなかで著名なものは蔵人 (くろうど) 所および検非違使 (けびいし) 庁の制度である。検非違使は,刑部省および太政官が司法上の機能を果たさなくなるにしたがって平安初期に設置されたもので,司法警察上の追捕 (ついぶ) のみならず,糾弾・断獄の諸権をももつにいたった。まもなく民事裁判に関与するようになり,追捕使とともに諸国にもおかれるようになると,農民からの年貢所当の徴収にまで参与するにいたった。律令制の最盛期とちがって,租税を強力なしには徴収できない階級関係の変化が,検非違使の機能の変化にも反映した。検非違使の庁例は,使庁の流例ともいわれ,律令の刑法とはちがった性質の慣習法として通用した。官庁内部の慣習法は例または行事という言葉で奈良時代からすでに法的に認められてはいたが,公家法の時代には,法のあらゆる分野で,慣習法の体系が重要な法的意義をもつようになった。荘園制を基礎にして発達した本所法 もその一つであるが,地方の行政組織の内部に発達してきた国衙 (こくが) 法 ともいうべき慣習法もその一例である。国司制度は,基本の形式は平安時代になっても律令法と変りはなかったが,国司の職が封禄と化し,任地におもむかない遥任の国司が増加するにつれて,諸国の行政は留守所あるいは在庁官人が行うようになった。そのさい,国衙領は,百姓名 (みよう) が奈良時代の戸に代わって基本単位となっていたので,租,庸,調,雑徭および各種の臨時の賦課も,それに対応した徴収方法を採用しなければならないことになり,ことに国衙領の内部に成立した荘園との関係を規制するためには,律令法にない新しい法をつくり出す必要があった。当時の文書において〈当国之例〉といわれるような慣習法は,このような必要に基づくものであって,それは本所法とならんで,中世の武家法の基盤の一つとなった。 ⇒古代法

石母田 正

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ネットで百科@Home

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参考4:
中国の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2