今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極
テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義
これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。
+i 同一性言語知性(近代合理主義)
↓
↓
抑 圧
↓
境界____↓_____境界
↓
↓
↓
-i 差異・感性・身心性
↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。
+i 同一性言語知性(近代合理主義)
↑
↑
狂 気
↑
境界____↑_____境界
↑
↑
↑
-i 差異・感性・身心性
しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発されると考えられるのである。
より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。