A one-track mind:一つの観念に取り憑かれた心:差異の翳りに拠る同

A one-track mind:一つの観念に取り憑かれた心:差異の翳りに拠る同一性主義の発生


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


one-track mindという句があったので、辞書を調べたら、one-trackで、「一つの観念にとりつかれた」という語義があった。この「一つの観念にとりつかれた」というのは、正に、私がこれまで批判してきた同一性主義にあてはまる。
 では、この「一つの観念にとりつかれた」という事象を、PS理論的に解明したと思う。意外にあっさりと説明がつくのではないかと思う。
 今は簡単に考えたい。同一性主義とは、自己内差異(他者)を否定し、自己同一性(自我)を志向するあり方である。この自己同一性(自我)志向が、思うに、ただ一つの観念をもたらすと思われる。
 問題は、このただ一つの観念の正当性である。同一性主義は、このただ一つの観念を正当化する根拠をそれなりにもっているはずであるが、それは何か。
 それは、端的に、+1だと思う。これが同一性である。そして、ここから、-1の同一性主義へと転換するのである。
 +1、即ち、A=Aである。ナスはナスであるという、「自同律」である。これは、交換価値になるのである。すなわち、ナスは一袋158円であるということである。ナスが、交換価値となったのである。
 本来ならば、差異があるのであるが、同一性価値が主導化すると、差異が排除されて、同一性主義となる。
 結局、同一性主義(ただ一つの観念の正当化)とは、端的に、同一性傾斜に拠ると考えられる。父権制である。
 この父権制が同一性主義の根拠と考えられるのである。ここで、原差異共鳴性が否定されて、同一性主義という二項対立が発生するのである。
 これが本件の答えである。一つの観念にとりつかれるというのは、父権主義の為せる業である。宗教で言えば、一神教である。とりわけ、ユダヤキリスト教である。

P.S. 同一性主義の根拠として、+1、すなわち、同一性を提示したが、少しあいまいである。なぜなら、同一性+1とは、同一性主義ではなく、差異共鳴性の帰結であるからである。つまり、+1は、差異共鳴性に包摂されているのである。
 それは、同一性自己であり、差異共鳴「自己」に包摂されているということになろう。
 では、同一性自己が同一性主義自己(自我主義)になるのは、何が根拠かである。それは、これまで指摘したように、差異共鳴性において発生した苦・悲が原因である。それを否定するようにして、同一性主義自己が形成されると考えられるのである。
 だから、同一性主義の根拠は、+1ではなくて、ネガティブとなった差異共鳴性である。反動である。差異の反動が同一性主義の根拠である。
 とまれ、後で整理したい。

P.P.S. 結局、同一性主義とは、同一性が、ネガティブになった差異に対してとる反動性が、根拠である。いわば、「暗い」差異を否定して、「明るい」同一性の鏡像へと、いわば、再帰することが、同一性主義の力学である。言い換えると、差異に対して、自己投影して、同一性化するのである。即ち、差異に対して、同一性を投影して、その投影像=鏡像と同化することが同一性主義になるのである。
 これは、いわば、自己瞞着である。自己欺瞞である。自己を投影して、その投影像と一致するのであるから、自己重複である。自己盲目である。独善化である。
 いわば、結果から初めて、それを原因におくようなものである。
 とまれ、この場合の同化とはどういうことであろうか。投影された同一性自己に同化するとはどういうことなのか。(一種の疎外やナルシシズムである。)
 投影であるから、なんらかの光が出ているはずである。それは、同一性の光ではないだろうか。差異に対して、同一性の光を投影するということではないだろうか。
 本来、差異共鳴性から同一性が形成されたのであるが、それが逆に差異共鳴性へと自己投影するということになると考えられる。差異共鳴性とはいわば、超光(超越光)であり、それに対して、同一性は光である。この光が超光(超越光)へと自己投影するということになる。
 喩えて言えば、太陽を直視することはできない。だから、サングラスで太陽を見るようなことである。つまり、サングラスという「光」を太陽へと投影するのである。そして、超光の太陽は、サングラスの「光」となるのである。サングラスの「光」が鏡像である。
 これは、同一性による差異の遮蔽と言っていいだろう。同一性自体によって、同一性の壁を作り、差異を遮断するのである。これは、同一性の倒錯的統一化と呼べよう。あるいは、同一性の倒錯的自己目的化である。
 では、そもそも、投影とは何か。何故、投影するのか。それは、もともと、同一性が光であるからではないだろうか。同一性光である。だから、投影するのではないだろうか。この同一性光が、ネガティブな差異へと投影するということだろうか。
 否。同一性光はネガティブな差異に投影するのではなく、排除するのである。差異を隠蔽するのである。差異の否定である。否定の闇があるのである。そして、同一性光がその否定の闇に投影するのではないのか。
 この闇は盲目、無知、無明である。だから、結局、同一性のもつ力学、否定の力学が発生して、同一性主義になるのである。同一性の力学が、肯定と否定の二項対立なのだろう。
 しかしながら、同一性の二項対立の力学とは、内在的なものではなく、差異に駆動されているので、外在的なのである。だから、同一性主義とは、内在的には、根拠をもっていないのである。デリダの言うように、脱構築されるのである。原点が差異にあるからである。
 整理すると、差異に駆動されて、同一性の二項対立力学が発生するのである。しかし、原点・根拠の差異を隠蔽しているのである。
 結局、差異共鳴は本来的には、超光であるが、それが、ネガティブになったときに、同一性主義が発生するということになる。(思うに、ヤハウェ教の発生の根因がここにあるのではないだろうか。)
 差異共鳴性がネガティブになったとき、超光はどうなるのだろうか。そもそも差異共鳴性がネガティブになるとはどういうことだろうか。
 それは内在的なものではなく、外在的に阻害を受けた様態である。だから、負の差異共鳴様態である。だから、本体の差異共鳴性は、根本的には、肯定的なものであるが、現象において、負化されるということになるのである。(やはり、ここで、ヤハウェ教を想起するのである。ヤハウェとは、負化された差異共鳴性ではないだろうか。ネガティブな差異共鳴性ではないだろうか。)
 そう、負の差異共鳴様態というルサンチマンから同一性主義が発生するということだと思う。簡単に言えば、本体の超光が翳ったときに、同一性主義=光という父権暴力が発生するということである。(ここでも、ニーチェの大天才的慧眼が確認できる。)
 これで、本件の検討が終了した。最初は簡単だと思ったが、意外にも、難問であった。