無知(愚)の知と「汝自身を知れ」:何故、己を知るのが難しいのか:

無知の知と「汝自身を知れ」:何故、己を知るのが難しいのか:自我優越の「天」と身体の「地」の結婚


テーマ:哲学


「汝自身を知れ」、これは、古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロ神殿での、神託である。
 以下の参考資料がとても役に立つ。今は簡単に言うが、私の理解は、「汝自身」とは、自分の諸々の「欲望」ではないかと思う。知の欲望があり、富の欲望があり、精神的欲望があり、身体的欲望があり、社会・社交的欲望があり、等々である。
 思うに、個の諸欲望を妨げているのは、見栄や虚栄心である。というか、ある方向に傾斜した欲望が、他の欲望を阻害するようになると思う。ある方向に傾斜した欲望とは端的に執着、我執であり、妄念的になりうるのである。
 仏教は、これからの脱却(解脱)を、説いているが、これが、実際は実に困難である。ある方向に傾斜した欲望、執念は、他の欲望を圧倒するのである。執念の一番は自我優越傾斜ではないだろうか。他者よりも優越であらんとする欲望、自我優越欲望が、最大のものではないだろうか。
 例えば、出世し高い地位に就きたいとか、人に称賛されたいとか、人にはできないことをしたいとか、その他様々な自我優越欲望があるだろう。
 もっとも、これはこれで意味があることである。ただ、それが、他の欲望を圧倒すると、バランスが崩れて、自己欲望に囚われて、自己に対して無知(愚・無明)となるのである。つまり、自己無知とは、囚われの状態を意味しよう。これは、ある欲望が自己を支配しているのであり、自己はその被束縛状態が認識できないのである。
 ある一つの自我優越志向欲望が他の諸欲望を支配しているので、自己盲目・自己無知となっているのである。資本主義ならば、交換価値という利益への欲望が至上である。これは、また、同一性主義そのものである。
 では、この自我優越欲望=自己無知に対して、どう対処し、自己知を獲得できるのだろうか。確かに、無知の知(愚闇の知)は一つのポイントではあるが、積極的ではないと思う。
 思うに、今は、暫定的に言うが、一つの方法は、他者の気持ち・思い・心を汲むことではないだろうか。いわば、ボーモン夫人の「美女と野獣」の教訓のようなものではないか。外見に囚われて、心を尊重しないときが、自己無知ではないのか。
 また、端的な自己認識に関してであるが、自我が否定するものは、実は、自我が望んでいるものの可能性があることである。諸欲望のぶつかり合いがあるのであり、そこから、ヒエラルキーが生じて、ある欲望を他の欲望が否定するのである。つまり、二項対立的価値観が存しているという問題である。結局、多元多様な欲望を認めるべきだと思う。そう、自我優越欲望とは端的に、二項対立的価値観である。自己同一性を、他者よりも優越化しようとする発想である。
 ここにおいて、知と身体との「結婚」が可能になるだろう。「天」と「地」の「結婚」である。差異共鳴である。西洋文明は「天」を中心化して、「地」を貶めてきたのである。封建主義、近代主義がそうである。
 後でプラトンの「コーラ」について検討したいが、思うに、「コーラ」は、「地」ではないかと直感するのである。PS理論では、-iである。「天」が+iであるから、「地」は-iとなるのである。父権制が+iで母権制が-iではないのか。
 もっとも、この点は微妙なのである。今の私の考えでは、負父権制とは、「天」へ傾斜しているのであるが、母権制とは、「天」と「地」との共鳴性ではないかと思っている。【これは、またジェンダー論、女性の脳論に関係する。例えば、男性の脳は左脳傾斜していて、同一性主義であるが、女性の脳は、両脳の共鳴性が主導的ではないのかということである。しかし、現代の女性は男性教育つまり左脳教育を受けているので、本来的な両脳の共振文化=母権文化を喪失しているのではないか。】
 この視点から見ると、「コーラ」は、「天」と「地」との共鳴性ということになる。どちらが本当なのか。「地」なのか、「天」と「地」との共鳴なのか。しかしながら、これは、ある意味で愚問ではないか。「地」は「天」という同一性傾斜性にとっては、差異である。そして、本源的には、「天」と「地」とは共鳴相にあるのである。だから、「地」という差異は、「地」との共鳴相を本来意味するのである。
 この点から見ると、「コーラ」とは、「地」であるし、「天」と「地」との共鳴相であると言えるように思うのである。差異は差異共鳴性なのである。【これは、大女神と大地母神との関係にもあてはまるだろう。大女神は、言わば、「天」と「地」との共鳴神であり、大地母神は当然、「地」の神である。しかしながら、両者は一体であると見るのが正しいだろう。大地の女神とは、「天」と「地」の共鳴原神である。端的に、コスモスの女神である。】
 今はここで留める。


参考:

「汝自身を知れ・・・汝自身を知れ・・・」そう、心の中で何度も反芻(はんすう)した・・・。

3ヶ月ほど考え続けた挙げ句、ソクラテスは、このように考えるようになった。
「余りにも近くにあるものに対して、意識を留めることがなかった。そこから自分の感覚は無感覚と無意識に支配されていたのである」

さてこの自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主(あるじ)になっていない現実をつくづくと思い知らされるソクラテスであった。それからソクラテスは、無感覚と無意識を排除し、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになった。

http://www.st.rim.or.jp/~success/sokuratesu_ye.html


「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男

ソクラテス異聞