差異通貨論:新ブレトン・ウッズ体制に関連させて

差異通貨論:新ブレトン・ウッズ体制に関連させて


テーマ:差異通貨・貨幣論


再掲である。

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Sat, September 22, 2007 20:19:05
同一性資本から差異資本へ:量的経済から質的経済へ:トランス・モダン差異共生経済へ
テーマ:差異通貨・貨幣論 サブプライムローンという現代の金融工学を駆使して造られたローンであるが、実質は、貨幣の古典的形態の問題から出ていないと考えられるのである。つまり、リスクを分散させて証券を多発したのであるが、結局、目指しているのは、交換価値=量的価値の増加・肥大化に過ぎないのである。古典的な貨幣の仕組みから脱皮していないのである。小手先の技術が発達しただけなのである。
 さて、そこで、サブプライムローン問題に関係させて貨幣について、新たに、プラトニック・シナジー理論から考察してみよう。
 私は、サブプライムローンは、シェイクスピアの『マクベス』の魔女の予言とマクベスの関係と類似していると直感した。これは何を意味するのかと言えば、構造として貨幣が喚起する、期待の地平(投機の地平)があるのであり、この期待の地平(魔女の予言の地平)において、同一性(連続的同一性)である貨幣(資本)が拡大・成長・肥大化するのである。
 この拡大・成長・肥大化は、当然、量的増加であり、同一性構造における増大である。なぜ、この期待の地平において、増大化するのかと言えば、それは、同一性構造が自我の構造であり、端的に、自我欲望の構造であるからということになる。
 貨幣(資本)は、同一性構造=期待の地平において、自我欲望と結合・融合しているのである。ここでは、投機と妄想は区別がつかないだろう。だから、「魔女の予言」なのである。
 近代合理主義においては、合理的な投機と妄想的投機の区別がつかないのであり、バブルが必然的なのである。ここでは、合理性と妄想が同次元なのである。
 なぜ、合理性と妄想が同次元になるのかと言えば、端的に、同一性構造=期待の地平が基盤にあるからである。同一性構造とは、抽象・一般的構造、抽象的量的構造であり、同一性(=貨幣)は無限に拡大しうるのである。つまり、抽象・一般・量的価値=近代合理性が無限に増加しうるという妄想を生むのである。
 このような近代合理主義的貨幣論に留まっているので、金融工学を駆使しても、サブプライムローン問題という古典的なバブルが発生するのである。
 この問題は、結局、貨幣における交換価値という同一性価値の増大に留まっていることから発しているのである。差異的価値へと転換しないために、同一性の量的価値の無限の拡大を志向して、バブル化して、崩壊するのである。
 金融資本の投資家が、量的価値しかもっていないから、このようなことが起きるのである。差異的価値へ盲目なのである。ここで、現代哲学を考えてみると、ポスト・モダンは、脱同一性=差異を志向した。これは、単純に言えば、貨幣の同一性(近代合理主義)からの脱却を意味している。
 しかしながら、これまで述べたように、ポスト・モダン哲学は、同一性を生み出す連続性から真に脱却できなかったのである。思うに、リスクを細分化して、拡散させる金融工学は、ポスト・モダン哲学と同じではないかと思えるのである。リスクの細分・拡散化とは、同一性的差異(連続的差異)の形成を意味するのではないだろうか。連続的差異をたくさん作っても、結局は、微分に過ぎず、同一性自体は変わらないのである。元の木阿弥である。
 結局、純粋な、絶対的差異(超越的差異)へと転換できないことから、現代の資本主義の混沌が生まれていると考えられるのである。トランス・モダンへと転回できないでいるのである。
 絶対的差異への転換、これは、量的価値(交換価値)から質的価値への転換を意味する。そして、プラトニック・シナジー理論からは、差異は即非・共振性をもつので、差異共生主義へと転回することが考えられるのである。これは、新共同体(新共生体)を意味するのである。
 貨幣・資本は今や、新たな共同体・共生体形成へと振り向けられる必然性があるのである。成長という用語を使うならば、量的成長から質的成長へとパラダイム・シフトすべき時に至っているということである。比喩的に言えば、蛹から蝶へと成虫化すべき時に至っているのである。
 貨幣・資本は、同一性価値に基づく量的成長から差異的価値に基づく質的成長へ変換するために、投資される必要があるのである。この差異的価値への転換のために、差異的経済価値の法律が必要となると考えられるのである。差異共振性・差異共生性のために使用される投資は優遇されるように法律化すべきなのである。
 私は、単なる寄付ではいけないと考えられる。寄付=贈与は、実は一種の負債である。というか、根源的な負債であろう。寄付される方は、負い目があり、寄付する方は寄付される方に対して、権力をもつのである。あるいは、逆の関係となろう。どちらにしろ、主従関係である。
 ということで、近代合理主義/ポスト・モダン=魔女の予言(サブプライムローン)からのエクソダスとして、トランス・モダン=差異共振主義へとパラダイム・シフトする必然性があるということである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10048167048.html

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金儲けと「同一性=自我」欲望:Kaisetsu氏の銀本位制と有限化
テーマ:差異通貨・貨幣論
私の今の直感では、金儲けに奔走する人間は、「同一性=自我」主義に陥るということである。金は同一性=交換価値であり、すべてをそれに還元する。極端な例が守銭奴である。
 ここで政治について言うと、自民党は金のこの魔力に長い間浸かってきたので、国民の痛みという差異が認識できなくなっていると思える。
 金はこの世でいちばん危険なものである。悪魔である。しかし、この悪魔は天使にもなる。デリダプラトンファルマコンパルマコン)の両義性について述べたが、ファルマコンの典型は金であろう。毒薬であり、良薬でもある。
 金は、だから、麻薬・ドラッグに近い。また、ギャンブルにも近い。この金の魔力を極力減らすことを考えないといけないだろう。アメリカの軍需産業は、戦争経済という悪魔経済を形成しているが、それも、金の魔力である。イエスカエサルのものはカエサルへと貨幣について述べたのはある意味で正しい。
 結局、「同一性=自我」欲望と金が密接に結びついていて、差異が押さえられてしまうのである。これが、ハイデガー的に言えば、世人の様態である。 Kaisetsu氏は、銀本位制を提唱されているが、それは、明敏である。つまり、「同一性=自我」欲望が、抽象的な金=交換価値と融合して、無限欲望幻想へと駆り立てるからである。銀本位制ならば、本来伝統的な通貨制度であり、「同一性=自我」欲望を銀という金属に有限化できるので、無限欲望幻想を押さえることができるのである。
 また、環境問題も銀本位制によって解決できる可能性が生まれるだろう。何故なら、環境は有限であるからであり、「同一性=自我」欲望を限定することで、環境の有限性へと目覚めることが可能になるのである。
 環境問題は、今日、とりわけ温暖化として問題化しているが、結局、社会全体において、どうやって差異化をもたらすかにかかっているだろう。PS理論がこのための指針をもたらすと考えられるのである。結局、実践的問題として、「同一性=自我」欲望の「世人」をどう矯めるのかである。これが難しい。
 自民党は「同一性=自我」欲望に麻痺しているから、これを矯めるのはほぼ不可能であろう。イエスが言ったように、「死者は死者によって埋葬させよ」であろう。差異をもった新しい力をより進展するようにもって行く方が建設的である。
 Let Identity=Ego Desire bury itself.
 Let Difference create new future!
http://ameblo.jp/renshi/entry-10042725611.html


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Thu, March 01, 2007 11:15:16
イリアムズ・ジェニングズ・ブライアンで、金本位制に苦しむ農民の利益を代表して銀本位制を唱えた
テーマ:差異通貨・貨幣論
 「オズの魔法使い」の主人公の少女ドロシーは自分の愛犬トトとともに竜巻により家ごと吹き飛ばされます。砂漠に囲まれた美しく不思議なオズの国に住む邪悪な「東部の魔女」の家の上に落ちて、魔女は死にます。そして少女はオズの国にあるエメラルド・シティを目指します。その途中頭脳を必要とする「かかし」や、心を欲しがる「ブリキの木こり」、そして弱気な「ライオン」に会い、頼りにされますが、少女は自分の故郷カンザスに帰りたがります。「北の妖精」に助けられもしますが、「東部の魔女」のためにドロシーに復讐を誓う同じく邪悪な「西部の魔女」に邪魔されます。ドロシーは「東部の魔女」が残した「銀の靴」に強い力があることを、優しい「南部の魔女」から教えられ、その靴を履き砂漠を越えてカンザスの故郷に帰ります。

 私はつい最近までこれは完全に童話の世界の物語と思っていましたが、そうではなくて当時の世相をもじった寓話であるとの評論家ヘンリー・リトルフィールドの論評を読んで驚いたことがあります。その一部を紹介します。

 『19世紀後半は南北戦争後の共和党政権時代で政治家と資本家が幅を利かしておりました。「トムソーヤの冒険」の作者マーク・トウェインはこれを「金ぴかの時代」と呼んでおります。特に中西部一帯では1885年から87年までの間熱波と寒波が襲い、多くの牛が死んだため牧場主が破産、カウボーイは失業した他、1890年から94年にかけては、鉄道や企業の倒産が続いたため、失業、ストライキ、暴動が起こり、デフレが続くと言った時代背景がありました。登場人物は当時アメリカを構成した人物やグループを擬人化したもので、例えば、死んだ「東部の魔女」は破産した銀行家か大牧場主、「西部の魔女」は裕福な農場主または鉄道会社、「かかし」はカンザスの農民、「ブリキの木こり」は単純な労働の結果非人間化した東部の金属労働者、弱気な「ライオン」は 1896年の大統領選挙でポピュリスト党の大統領候補となったウイリアムズ・ジェニングズ・ブライアンで、金本位制に苦しむ農民の利益を代表して銀本位制を唱えたが、黒人グループを追い出そうとする党内勢力を押さえきれなかった弱気が災いして支持を集められず敗退して、党勢が衰えて行ったことをもじったもの等々。エメラルド・シティの緑はアイルランドの象徴であり、当時東部で差別されて西部に移住したアイルランド系市民を示している。』
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/hokubei/h_45.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10026852429.html

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マルクスの価値形態論とスピノザドゥルーズの身体・差異の哲学の比較:
テーマ:差異通貨・貨幣論
以下は、2003年8月21日の日付がある。
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マルクスの価値形態論とスピノザドゥルーズの身体・差異の哲学の比較:

前者は、資本主義力学における形式論理、様態であろう。そして、これは、
象徴界=二項対立と結びついているだろう。今村仁司の第3項排除論はこれを説明するものだが、これは、いわゆるポスト構造主義的な考えだろう。つまり、根源の差異を排除して、二項対立、二元論が形成されるということだ。デリダなら差延であるが。このように考えると、マルクスの価値形態論とは、資本主義の構造主義分析である。貨幣という商品が排除される。では、貨幣とは、となる。これは、ドゥルーズ的に言えば、差異を隠蔽している代用物であろう。
人間と人間、人間と自然との関係における力の源泉を隠蔽するような代用物であろう。(「乖離の現象学」からすれば、情動や欲望の言い換え、メタファーやメトニミーに相当するのだろう。)とまれ、差異を同一性に変換する「イデア」=抽象作用である。そう、悟性作用と言っていいだろう。数的な作用である。計算作用である。合理化作用である。言語作用である。差異、単独性の排除がある。この排除を隠蔽する作用の一つの要として貨幣があると言えよう。つまり、貨幣とは、差異排除的同一化作用の経済的手段である。これは、抑圧力=暴力・支配力・権力=死の欲動と一体である。(ゲゼル会の森野氏によると、価値形態論もプルードンからの剽窃ということになるようだが、ここでの問題は価値形態という資本主義経済力学における構造性であるので、発見者がマルクスであろうが、プルードンによるのであろうが、かまわない。)
以上のように考えると、資本主義を脱するには、ドゥルーズ的な差異哲学に立たないといけないだろう。また、脱資本主義貨幣論が必要だろう。同一性の貨幣でなく、差異としての貨幣が必要である。(この点は、ゲゼル的な発想が役に立つだろう。しかし、問題は、差異のための新しい貨幣・通貨が必要ということである。だから、そのための差異経済連合が必要であろう。
とまれ、差異が先立たないといけない。シュティルナーのエゴイスト、唯一者である。このように見ると、柄谷氏は、問題の核心に近づいていたのだが、マルクススピノザドゥルーズを連結することができなかったと言えよう。マルクス的な経済的唯物論に囚われているかぎり、この連結ができないだろう。柄谷氏は、ここで行き詰まってしまったと思う。【価値形態論の構造主義は、カントの超越論性・先験性と、柄谷氏が説いたように、通じるのであり、彼は、必然的に、マルクスとカントを結びつけた。だから、この点で、柄谷氏は、マルクスの後継者である。(ドゥルーズの「構造主義とは何か」を読まないといけないだろう。)しかし、彼の直感が捉えていたスピノザシュティルナー性は切り捨てられてしまった。ドゥルーズ研究を継続すれば、問題を解決できたかもしれない。やはり、なにかあせって、もっていたものを合理洗浄化して、整合性のあるマルクス構造主義=カント超越論と価値形態論?地域通貨?アソシエーションへと帰結したと言えよう。思うに、柄谷氏のあせりとは、冷戦後のグローバルな展開によるのではないだろうか。】つまり、力の源泉は、差異にあるのであり、価値形態論から差異論へと発展しなくてはならなかったのである。そして、今フーリエを読んでいて思うのだが、内在平面の力、差異の力とは、連合へと向うということだろう。フーリエの情念引力と差異力(スピノザ化した能動的差異力としよう)は通底すると思う。もともと内在平面において、個体と個体は連結しているのだが、現象界においては、反発しあう。二項対立・同一性的な反動である。しかし、差異を発芽させるとは、内在平面の力を喚起することであり、現象界における連結を目指すと言えよう。それは、ガタリ的に言えば、カオスモーズを活性化することであり、ここが現象界に近い連結の源泉となるだろう。とまれ、内在・潜在的に連結力は喚起されるわけである。これは、思うに、経験的に言うと、確かにフーリエの言うような協同社会(ないし連合社会)的な情念引力と通底するように思える。(cf. ロレンスにもこの力があったと思うが、父権化、象徴界化に囚われていただろう。)
つまり、ドゥルーズガタリ的な内在的差異力・カオスモーズの連結指向とは、
現象的には、強度的な共感引力すなわち情念引力になるのではないだろうか。つまり、内在平面という一体の力が差異に発動しているわけであるから、差異は連結・結合へと向うのだ。(cf.ゲーテの親和力)
ということで、整理すると、ドゥルーズガタリの内在平面・差異・カオスモーズの力とは、フーリエの情念引力とほぼ一致するのではないだろうか。彼らの変様態=情動(affect)(被知覚態percept含めてもいいだろう)は、情念引力とほぼ等しいだろう。ただし、フーリエの方が商人だったので世故、世俗に長けていて、欲望をよく知っている。つまり、ドゥルーズガタリだと、いかにも、フランスのエリート、知識人という感じで、世間を知らないのだ。つまり、情動性や欲動を取りだすが、欲望は軽くみているのだ。ブルジョワ的ということで。でも、そうではないのだ。欲望も認めないといけない。この点で、フーリエの情念引力の方が網羅・包括性があると言えよう。そこで、さらに整理すると、ドゥルーズガタリの内在諸力とは、顕現態としては、欲望を含んだ、連結指向的な欲動・情動として発現するのであり、それは、情念引力と等値であろう。だから、ドゥルーズガタリフーリエの「結婚」が生起するのだ。それは、フーリエの有神論を差異的に解体して、差異化するだろうし、ドゥルーズガタリ(略して、D/G)の差異哲学は、逆に情念引力化して、欲望化し、また、はっきりとその連結指向が協同社会・連合へと発展するだろう。(思うに、ロレンスも晩年、この差異的協同社会へと指向したのではないだろうか。)当然、ここにはシュティルナーのエゴイストの連合も入るし、また、プルードンの多元連合論も、差異・情念引力化されて、入ってこよう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018398906.html


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検討課題:貨幣と差異
テーマ:差異通貨・貨幣論
Kaisetsu氏が説くように、貨幣の起源を、王権的なもの、つまり、王権の観念・概念像として、考察を始めよう。思うに、ここには、普遍性、一般性、特異性が現れている。普遍性は、王権的観念・概念である。それは、ある意味で、イデア的と言えるのである。換言すると、メディア・シナジー・エネルギーをもつものである。
 一般性は、これと関係するが、数的価値である。そして、特異性は、その貨幣自体の希少価値性である。貴金属性である。普遍性と特異性は差異と、一般性は同一性と関係するだろう。しかし、ここでは、正確に検討しないといけない。
 王権的普遍性とは、差異且つ同一性である。ここには、矛盾両立があるのである。貨幣自体の特異性は、この王権的差異と関係するだろう。つまり、金貨や銀貨は、王権的差異と一如である。そして、貨幣の数的価値=一般性は、当然、同一性であり、これも王権的普遍性と関係する。図式化しよう。
     
      差異・特異性・・・貨幣自体
      ↗
王権的普遍性→メディア・エネルゲイア
      ↘
      一般性・同一性・・・貨幣の数的価値

 では、王権的普遍性とは、プラトニック・シナジー理論から見ると何だろうか。これは、先にも述べたが、父権的一神教エネルゲイアと等価であろう。ヤハウェに等価である。ここで、想起するのは、イエスが、「カエサルのものは、カエサルへ」と言ったことであるが、しかし、貨幣は、神的なのであるから、単にカエサルのものではないのであるから、イエスの言葉は誤謬である。さらに、想起するのは、貨幣とキリストが等価であると、以前述べたことである。ロゴスの受肉としてのイエス・キリストを考えると、貨幣としてのキリストということがよくわかるだろう。ロゴスが神的普遍性であり、それが、物質化されたものが、キリストになるのだから。
 ここで、解答すると、貨幣=王権的普遍性とは、メディア・シナジーエネルゲイアの同一性構造である、ということである。不連続的差異論的に言えば、メディア界のエネルゲイアをもつメディア/現象境界同一性構造性である。しかも、貴金属として、特異性化されているので、個体的なものである。だから、やや極論的になるが、メディア界=メディア平面そのもの、差異共振シナジー様相そのものと言えそうである。そう、正に、メディアである。貨幣は、理想的な媒体と言えるのである。
 問題は、連続・同一性構造である。メディア・エネルゲイアは、この場合は、王権・権力であるが、それが、貨幣の連続・同一性の数的構造を実効的に保障しているのである。(信用とは、王権・権力であろう。)そして、この連続・同一性構造への傾斜が、差異や特異性の否定・排除・隠蔽へとつながるのであり、金融・拝金資本主義においては、まさに、そうなっているのである。
 ここで、ルネサンス(イギリス・ルネサンスのエリザベス朝時代も含む)を想起するのである。それは、差異の発現・顕現の時代である。差異共振シナジーの発現・発動・作用の時代と考えられるのである。だから、貨幣・資本は、そのようなものとして、存したと考えられるのである。つまり、王権的普遍性をもつ貨幣・資本が、差異共振シナジー化したと考えられるのである。貨幣のメディア・エネルゲイアが、差異共振シナジーエネルゲイアになったということである。しかし、近代合理主義、唯物科学が発展すると、メディア・エネルゲイアが失せてくるのである。それは、連続・同一性中心主義に取って代わられるのである。これは、エンテレケイア化と言ってもいいかもしれない。貨幣が本来のメディアから、エンテレケイア・終極態=目的になったのである。これは、貨幣の堕落である。つまり、貨幣の連続・同一性化である。ここでは、メディア・エネルゲイアが排除されているのである。思うに、ここには、不兌換制度が原因としてあるように思えるのである。貨幣の特異性としての貴金属性を喪失したとき、それは、同一性の傾斜へと流動すると考えられるからである。(ここで、直観を言うと、貨幣の貴金属性、兌換制とは、貨幣の身体性である。貨幣の「精神」・「魂」・「霊魂」とは、貨幣の心身であり、身体且つ思惟である。不兌換通貨制とは、いわば、身体のない思惟、つまり、幽霊状態である。身体(延長)と思惟(意識)がそろって、「精神」・「魂」・「霊魂」が顕現するのである。)
 後で、再検討したい。

参考:
「貨幣の起源を考えるテキスト」
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=375802
「『交換』概念の研究」
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=376712
「等価概念の否定⇒連続性の否定」
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=379678

Theories for the Platonic Synergy Concept.
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018211593.html



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差異共振シナジー通貨論のための過去のブログ・リスト
テーマ:差異通貨・貨幣論
ポスト近代西欧と共生主義:メディア界的理性・調和・均衡http://ameblo.jp/renshi/entry-10000620997.html

民主主義通貨と資本主義通貨:世界共生通貨ガイア?http://ameblo.jp/renshi/entry-10000608030.html


差異潜在・内在需要と差異共与経済http://ameblo.jp/renshi/entry-10000523575.html

近代的自我と民主主義:欲望と倫理http://ameblo.jp/renshi/entry-10000518262.html

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差異共創存主義経済へ向けて
http://ameblo.jp/renshi/entry-10000429590.html

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プラトンの善とイデア界:プラトニズムと不連続的差異論http://ameblo.jp/renshi/entry-10000715083.html

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差異資本主義とは何か:差異と資本:差異という妖怪が遊牧するhttp://ameblo.jp/renshi/entry-10000575345.html

聖霊資本主義、差異共立資本主義、メディア界的資本主義とは何かhttp://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/2613381#2613381

経済とはメディア界に属しているのではないか
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/1745392#1745392


検討課題:差異共存共創経済と脱・ポスト資本主義
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/1802566#1802566


差異共存共創資本的政治経済社会論:差異共存益・共創益的相補性・相互補完的資本経済
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資本主義の哲学:新自由主義的資本主義から差異主義的資本主義へ
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差異資本論(ジャンル/テーマ)
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