八田真行 (2003)「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解 「オープンソース的著作物」は可能か」 2003年9月29日 japan.linux.com

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[ 更新日時:2005/11/28 15:47 ]
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2005/11/26のBlog
検討課題:何故、イデア・メディア境界において、何らかの「核」が発生するのか
[ 15:47 ] [ 自然科学 ]
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この問題は、根本的なものの一つだろう。簡単に言えば、原構造がどうして発生するのかということだろう。脱構造であるイデア界がim境界で、構造化する。この変換システムは何か。ゼロ化で、連結するのは、わかるが、どうして、あるまとまりを形成するのか。ここで、単純な場合を考えよう。
差異1/差異2⇔差異1φ差異2
この差異1と差異2が連結して、差異1φ差異2という構造を形成する。そして、差異1ー差異2という連続・同一体を発生させる。例えば、水素と酸素が連結して、水が発生する。水素/酸素→水素φ酸素→水である。このとき、エネルギーが放出されるだろう。境界がエネルギーになったのだろう。そして、ゼロ化して、連続・同一体となる。このような化学反応が、差異論に適用できるならば、本テーマは、解決できる。つまり、im境界で、多様な連結化が生起するのである。無数の順列化が生起するのである。ただし、4元性が構造力学として支配的であろう(4つの力)。量子論では、二つの量子を基礎にしているが、不連続的差異論では、一種類の差異を基礎単位とするだろう。(この点は後で、検討。)
 ここで、ついでに思ったことを述べると、差異は、垂直・水平性の対極性があると考えているが、さらに、高低・深浅性があってはいけないのか。つまり、立体性があってはいけないのかということである。この点も後で検討。

p.s.  ここで、化学反応の図式を、差異論に適用できるとして仮定した上でだが、境界がエネルギーになるならば、境界には、原エネルギーがあるということになる。これが、デュナミス、一種ポテンシャル・エネルギーである。境界エネルギーとは、イデア界の虚力である。そう、もし、差異と差異の間にゼロしか見なければ、この境界エネルギー・虚力を説明できないはずである。今日、物理学の標準理論が破綻しているということであるが、また、ダークマターダークエネルギーの存在が仮定されているが、思うに、境界エネルギーを想定すれば、解決できるのではないだろうか。つまり、境界エネルギー・イデア界の虚力が、ダークマターダークエネルギーではないだろうか。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが、暗い神dark godと呼んだものである。これは、彼の黒い太陽dark sunと並んで、神秘的な趣があるが、しかし、ロレンスの思考が、科学的ないし哲学的志向性をもっていることを考えると、これも単に、神秘性だけで、扱うべきものではないだろう。そう、これもエネルギー、根源的エネルギーと見るべきである。つまり、暗い神とは、やはり、境界エネルギー、虚力を指しているのではないだろうかということである。ロレンスがコスモスと呼んだものは、ほぼイデア界であり、また、im境界であろう。神々が発生するのは、im境界である。しかし、ロレンスは、『エトルリアの地』で、神々を発生する根源的エネルギーをコスモスに見ていたのである。だから、ロレンスのコスモスとは、イデア界のことと見るべきだろう。ロレンスは、やはり、プラトンに勝利したと考えていたが、プラトンに出会っていたのである。そして、キリスト教に対しては、絶対的に勝利したのである。
[ 更新日時:2005/11/26 15:49 ]
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生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論
[ 00:56 ] [ 人間の発生/人間の差異 ]
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ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで、消滅する。しかし、根源の核は、根源を反復するということになるが、この反復の力学は何か。そう、結局、現象体は、展開するが、それは、根源の核のプロセスである。つまり、根源の核の変態・変化・過程そのものである。だから、遺伝子、種子、卵を「生産」するのである。初めから、現象体には、核が内在しているのであるから、帰結的に、核を現象化すると言えよう。この反復はいわば、シャッフル作用だろう。骰子一擲である。アトランダム作用である。いわば、万華鏡の世界である。
 さて、ロレンスの「自己完成」、無限化とはどういうことだろうか。それは、存在体をイデア界化することではないだろうか。脱構造性をより進展させることが、「自己完成」、無限化であろう。そして、これは、宗教の本来の意味であろう。色即是空、空即是色。親鸞の往相・還相。阿弥陀如来。禅。万教帰一。万物が、イデア界的現象界を志向していると言えるのではないだろうか。地上楽園。万物はそれぞれの「速度」で、イデア界を志向しているのではないだろうか。万物は、生命であれ、非生命であれ、イデア・メディア境界的「霊魂」、「原形質」、「遺伝子」、「種子」、「卵子」、「胚芽」をもっているのだ。
 さて、ここで、経済、資本主義、民主主義を考えるとどうだろう。万民民主主義である。普遍民主主義である。個それぞれの「速度」、「色」で存在している。しかし、脱構造性への志向性を閉ざしたものは、悪である。つまり、構造性だけの存在は悪である。近代主義がそれである。これが、人類を絶滅の危機に陥れているのだ。絶対的ポスト近代主義である。資本主義も、ポスト近代的資本主義にならなくてはならない。新自由主義は、その一歩ではあるだろう。ただし、脱構造的資本主義になることが、本来である。思うに、ドゥルーズガタリは、連続性と不連続性を区別しなかったので、構造性と脱構造性を明確に識別できなかった。だから、彼らの資本主義論は、中途半端なのである。構造と脱構造、近代とポスト近代の混同があるのである。不連続的差異論に立脚することで、資本主義は脱近代化するのである。それは、脱構造的資本主義である。ポスト近代的資本主義である。

p.s. 少し蛇足的であるが、宗教の光とは、脱構造性が放つ光、イデア界の光である。これは、超光、原光である。ロレンスが無量光と言っているのは、正に、阿弥陀如来、アミターヴァ(無量光)に関係しよう。後で、この超光・原光と現象界の光の関係を考察したい。

p.p.s.  また、後で、異性化の問題を考えよう。何故、雌雄の別が生じて、それが、牽引したり、反発させたりするのか。これは、正に、差異の問題である。不連続的差異の志向性の問題であろう。以前に、男性は、女性にイデア界を見て、女性は、男性に現象界を見ると述べたことがある。予見を言えば、女性とは、複雑で、イデア界的でありながら、連続主義を志向しているのである。つまり、不連続的差異でありながら、連続主義志向である。現象界志向である。それに対して、男性は、連続主義であり、不連続的差異を志向するのである。ちょうど、女男は正反対である。これは、生命体の脱構造性⇔構造性の「絶対矛盾的自己同一」が二元的に分化・分離したものではないか。