不連続的差異論入門:その60

近代主客二元論について:唯物論的主観性と想像力的主観性

イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義産業革命、近代科学主義にぶつかり、想像力を主導性を打ち出した。たとえば、S.コウリリッジの理論がそうである。しかし、ここには、唯物論ロマン主義の相克があるのであり、結局、キリスト教に飲み込まれていく。つまり、ロマン主義から宗教性へと向かったのである。この問題は、モダニズムにおいても、継続している。
 デカルトの思惟と延長の二元論から、脱出できないのである。しかし、フッサールは、突破口を開いた。主客二元論が発生する母体を突き止めたのである。志向性である。それは、量子力学的考えとパラレルだろう。とまれ、超越論的主観性がベースにあるのである。しかし、正確には、超越論的主客相補性があると言うべきではないだろうか。この世界は、主観と客観が一如である。不連続差異理論では、メディア界である。
 さて、認識の基底がこのような一如の世界であるならば、近代的主客二元論は、どういうことになるかである。フッサールはこれを批判したのである。近代的二元論は、誤謬である。主観的フィルターを通して、客観を見ているのである。唯物論は誤謬である。だから、唯物論的自然科学は、主観的客観主義である。
 問題は、この主観性である。唯物論的主観性とは、カントの超越論的形式である。この近代的フィルターを通して、現象界を見ているのである。しかし、ロマン主義は、想像力を説いたし、カントは、『判断力批判』で、想像力に等しい、統合的な構想力を説いた。今は、詳述できないので、仮定で言えば、想像力、構想力は、メディア界、さらには、イデア界に通じるのである。超越論的形式、唯物論的主観性は、想像力、構想力を排出するのである。そして、これが、近代主義の精神病性、狂気性である。また、暴力性である。(この問題は、後で、精緻に論じないといけないが、ここでは、直観的に、大雑把に述べるに留める。) これは、また、デカルト哲学の問題でもある。そして、スピノザ哲学の問題でもある。
 客体対象を観察する際、想像力は、対象と主観とを結びつけるが、唯物論的主観性は、想像力を排除して、事物的認識を形成する。そして、これが、近代主義的認識である。そして、排除された想像力が、ロマン主義象徴主義モダニズムへと芸術的に表現される。唯物論的主観性と想像力的主観性の分裂がある。これは、いわゆる、「二つの文化」(理系と文系)の発生である。想像力を排した唯物論的主観性とは、自己中心的知性となる。ここには、他者が存しないのである。(唯物論社会主義が、全体主義になるのは、当然であった。)そして、これが、近代主義の精神病性、狂気性である。
 何が問題なのか。唯物論的主観性は、排除の知性であり、差別的であるし、反動的である。想像力を憎み、排除しているのが、唯物論的主観・自我知性である。これが、人類を絶滅の危機に落とし入れているものである。(ここで、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の言葉を想起する。知性の基底には、憎悪があるという。それは、まったく正鵠を射ている。ただし、唯物論的知性と言うべきである。)
 では、想像力とは、不連続差異理論から見たら、何か。それは、メディア界的認識方法ではないだろうか。主観と客観との一如の領域である。つまり、想像力=メディア界的認識である。また、さらに、メディア界とは、イデア界とつながっているので、想像力は、イデア界性を帯びることができると言えるだろう。直観というのは、この側面ではないだろうか。とまれ、想像力のイデア界的性質とは、思うに、一つは、特異性にあると思う。また、一種全体性にあると思う。コスモス性とは、メディア界におけるイデア界性であると思う。これは、イデア・メディア境界の性質とも言えるだろう。また、真善美を希求する点で、イデア界性があると言えるだろう。また、特異性をもち、差異的志向性をもつ点でも、イデア界的であろう。
 メディア界性とイデア界性をもっと明快にするべきである。一体感は、メディア界性である。しかし、特異性は、イデア界性である。だから、フッサールの志向性とは、メディア界的というよりは、イデア界的である。ロマン主義の場合、メディア界的「主観性」とイデア界的「主観性」とが混同されると考えられる。よくアレゴリーとシンボルの区別が言われるが、前者は、イデア界的であり、後者は、メディア界的であろう。とまれ、後で整理したい。
 今日、ポスト近代主義とは、想像力的知性を意味するだろう。あるいは、不連続差異的知性である。ポスト近代的「資本主義」で問題になるのは、不連続的差異の自己保存主義が肯定されて、共立・共存・共生性が等閑にされやすい点である。新自由主義には、この陥穽がある。だから、新自由主義に相補となる共立・共存・共生主義が必要である。ロレンス的に言えば、新自由主義の獅子、ライオンに対して、共立・共存・共生の一角獣、ユニコーンが必要なのである。唯物論社会主義共産主義は、完全に崩壊したが、今日、共立・共存・共生・共創主義が必要になっているのである。これが、ポスト社会主義である。社会共立・共存・共生・共創主義である。新しい社会とはこのようなものだろう。このための政治が必要である。共立・共存・共生・共創党が必要である。

p.s. ここで、キリスト教の問題をつけ加えると、この憎悪的知性の元凶がキリスト教ユダヤキリスト教であろう。つまり、超越的一神教が、憎悪を生んできたと考えられるのである。なぜなら、一神教は、自己中心的で排他的であるからである。他者を容れる想像力、メディア界的、又は、イデア界的想像力を排除していると考えられるのである。
 結局、超越的一神教とは、+のエネルギーの志向であり、連続・同一性を求めて、想像力を憎悪し、排除するのである。つまり、1/4回転におけるゼロ度から、メディア・現象境界の連続・同一性、構造性への2項対立主義をもっているのである。これは、凶暴である。