ポスト近代的科学とは何か

ポスト近代的科学とは何か

先の簡単な考察から、近代主義を生んだのは、ユダヤキリスト教であることが判明したようである。これを、作業仮説としよう。簡単に言えば、超越的一神教は、多神教を差別して、否定・無化しようとするのである。他者を否定しようと暴力的なのである。つまり、ここには、他者への憎悪があるのである。これは、ニーチェが、正に天才的に剔抉したキリスト教ルサンチマン性である。この二元論・2項対立・差別性が、ユダヤキリスト教にはあるのであり、これが、近代主義として、帰結したと言えよう。近代的合理主義・近代的自我主義のことである。このことを、解説しよう。 
 排他的超越的一神教を信仰するとは、当然、自我において、超越神に同一化することを意味しよう。超越神は、絶対的超越的自我主義であるから、信者も、そのようになる。つまり、ユダヤキリスト教的自我とは、絶対的・超越的自我である。(これは、D.H.ロレンスが、「父」と呼んだものである。)問題は、ここにロゴス・理性が関係することである。これは、古代ギリシア哲学の問題である。キリスト教古代ギリシアの遭遇の意味するものである。そして、中世・ルネサンスが関係する。そう、スコラ哲学の問題である。また、デカルト哲学の問題である。また、西方キリスト教の問題である。また、イスラム文化の問題である。近代主義の発生は、実に、複雑である。
 とまれ、ユダヤキリスト教が枢軸であることは、確かである。いったい、西欧において、その時、何が起ったのか。これが、根本的問題である。ここでは、簡単に言うと、憎悪主義的自我に、古代ギリシアの理性・ロゴスが入ったのである。両者が結合したのである。ここにおいてこそ、近代的2元論、近代主客二元論が起ったのである。しかし、ここに、経験・実験主義を入れなくてはならない。「試し」である。この三位一体が近代主義の母体である。しかしながら、一番の問題点は、憎悪主義的自我である。二律背反的自我である。これによって、誤謬とされたものは排除されるのである。当然、キリスト教に反するものは排除されるのである。異端審問等々である。この差別主義が、古代ギリシアの理性・ロゴス(又は、イデア)と実験・経験主義と出会い、近代主義が発生したのである。これが、デカルト哲学に集約されているだろう。デカルト哲学は、正に、西欧文化の集約点である。それは、近代主義とポスト近代主義の絶対矛盾的自己同一を意味するだろう。パラドクシカルである。この問題を解決したのが、フッサールである。
 とまれ、近代主義の主客二元論を形成した絶対的基礎は、ユダヤキリスト教であることが、これで判明したと言えよう。ユダヤキリスト教が、近代主義の根本的源泉であり、世界戦争を生んだ原因であり、また、今日、地球や人類を破滅させようとしているイデオロギーである。この点で、ニーチェ、そして、ロレンスは絶対的に正しいのである。彼らの洞察力、勇気は、最大に評価されねばならない。人類の恩人である。結局、ポスト近代とは何を意味しているのか、ということになる。これは、稿をあらためて論じよう。