想像力とメディア界。ポスト近代科学とは何か 2と3

想像力は、志向性と言えるだろう。そして、また、イデア・メディア境界にあるのではないだろうか。ならば、想像力と物理学はどう関係するのだろうか。ここで、直観で言えば、想像力はほぼメディア界である。だから、想像力とは、エネルギーであり、現象界の力を源である。大ざっぱではあるが、想像力=イデアと言ってもいいのだろう。また、当然、ヴィジョンでもある。想像力=イデア=ヴィジョンである。しかし、想像力は、イデア界とメディア界両面に関わる。結局、イデア界における志向性が想像力であり、また、メディア界の差異・ゼロ度が想像力でもある。(ここで、イギリス・ロマン派のS.コゥルリッジのファンタシーとイマジネーションとの区別を想起する。おそらく、ファンタジーは、メディア界的であり、イマジネーションは、イデア界的ではないだろうか。)ならば、想像力は、自然の力を包括している。4つの力を包括・包摂していることになるが、それでいいのか。
 問題は、差異・ゼロ度の意味である。これは、エネルゲイアである。これを想像力としていいのか。おそらく、それでいいのだ。4つの力は、心身諸力でもある。そして、心身諸力は、想像力を浸透されているだろう。感覚/感情/直観/知性は、想像力を帯びるだろう。
 ここで、より精緻化すると、想像力とは、イデア・メディア境界的である。ヤヌス(両面)的である。だから、不連続性と連続性の両義性をもつのであり、脱領土化と再領土化の両面をもつと言えよう。(思うに、ドゥルーズガタリの哲学は、想像力の哲学である。これは、ロマン主義の哲学の延長であろうし、また、カント哲学の延長であろう。)
 以上の観点から、近代主義を見ると、それは、想像力という根源を排除して、超越論的形式主義に徹したと言えるだろう。メディア界という想像力を排除して、超越論的形式を優越化しているのである。これが、フッサールが批判した、近代的科学である。想像力的である生活世界が喪失されるのである。そして、これが、私の言う近代主義の狂気・精神病性である。
 では、現代、不連続差異が主導的になりつつあるが、不連続差異と想像力とはどう関係するのか。特異性である不連続差異とは、想像力の根源である。しかし、想像力と等しいと言うよりは、直観力と言うべきではないだろうか。おそらく、直観力が、想像力のベースではないだろうか。直観力⊇想像力ではないだろうか。直観力とは、根源的志向性であろう。そして、想像力とは、イデア・メディア境界的志向性であろう。すると、不連続差異が主導的になるとは、直観力が主導的になるということである。そして、当然、想像力も内包するのである。ならば、直観/想像力の主導性を意味するだろう。ならば、完全に現代は、ポスト近代の新世紀・新時代である。原点に回帰した時代である。イデアルネサンスの時代である。万民天才化の時代である。結局、不連続差異共立・共存・共生・共創の政治・経済・社会・文化が進展するのである。絶対的ポスト近代主義、絶対的ポスト西洋・一神教文明である。





ポスト近代的科学とは何か 2

近代的科学は、想像力を排するものである。しかし、量子力学は、この点の問題点を提起している。丁寧に考えよう。
 一体、近代的科学の構造とは何かである。カントは、超越論的形式と定式化した。しかし、この現象界形式の意味するものを考えなくてはならない。不連続差異理論から見ると、メディア界の主客相補性を、二元論化する近代的現象界知性(科学)とは、一種虚構である。(現象界とは何かという問題があるが、ここでは置いておく。思うに、近代主義は、現象界の極端な形式である。)フッサールは、これを、自然的態度と呼んだ。(これは、西欧において、近代主義となったのではあるが。)
 思うに、メディア・現象境界は、二元論的視点を生む構造をもっているのだろう。しかし、西欧において、これが、徹底化された。とまれ、メディア・現象境界の形式を明確にしなくてはならない。メディア界が、差異・ゼロ度ならば、メディア・現象境界の形式とは、差異・無であろう。ゼロ度は、ゼロがあるのに対して、無とは、ゼロの喪失である。換言すると、差異の喪失である。あれかこれかである。二律背反である。これが、メディア・現象境界の形式・構造であると言えよう。カントの超越論的形式とは正にこれである。そして、レヴィ=ストロース構造主義もこれを意味するだろう(p.s. この点は、再考の必要があるだろう。)しかし、これを排他的にしたのが、西欧近代主義である。これが、西欧の特殊性である。つまり、絶対的二元論を生んだのが、西欧である。
 何が問題であるのか。メディア・現象境界は、普遍的であるが、これを絶対的二元論にしたのが、西欧である。つまり、近代西欧が想像力を排除したのである。とまれ、メディア・現象境界において、西欧近代では、憎悪主義が発動しているのである。そして、これが、世界全体に波及したのである。では、この二元論から生まれた、近代科学とは何であろうか。それは、メディア界的である「自然」を、物質主義的自然へと変換するものである。つまり、メディア界的自然を、物質主義化したのである。つまり、本来、メディアである自然を、物質化したのである。これが、近代科学である。そして、量子力学は、これを超えて、メディア界的自然を対象化しているのである。つまり、主客二元論を超えている主客相補性である「自然」を対象化しているのである。
 結局、メディア界が原自然であるということになる。これは、物質でも、精神でもないものである。東洋の「気」が、これであろう。結局、メディアが、ポスト近代科学の対象すべきものである。(先の倒錯的衆院選挙とは、正に、メディア選挙であった。)そして、これは、ポスト・理系/文系的科学である。メディア総合科学の誕生である。これは、想像力の科学であろう。もっとも、想像力に知性は内包されている。すると、想像力的科学の経済が可能である。これは、想像力の社会を意味するだろう。芸術的社会である。想像力経済である。想像力「資本主義」である。これは、イデア界又はメディア界的資本主義である。これは、思うに、新自由主義⇔共存共創主義相補主義であろう。



ポスト近代的科学とは何か 3:想像力・叡知・メディア界革命に向けて

「メディア」という原自然がある。これを、唯物論的主観性は、物質現象として、把捉する。この主観性は、超越論的形式(カント)である。また、カントの物自体とは、「メディア」=原自然である。通常目にする自然界=現象界とは、この超越論的形式によって、二分化された世界である。つまり、時空間形式によって、分化された世界である。主客分離された世界である。これは、近似値としては、正しいし、その近似値の中で、日常生活を行なっている。(フッサールの生活世界とは、この近似値「以前」の生活のことである。それは、内在しているものである。簡単に言えば、想像力的生活世界であろう。)しかし、近代主義、近代的科学は、唯物論的に主客分離を絶対化した。自然が物質主義化されたのである。しかし、物質とは、超越論的形式、時空間形式における、現象の存在性のことである。つまり、わかりやすく言えば、現象界形式における現象存在のことである。不連続差異論から言えば、差異と差異が、完全に連続・同一化した世界である。メディア界の差異・ゼロ度が、差異・無となった状態・様態である。つまり、無差異としての世界である。ここでは、存在は、固定化される。時空4次元的に定置できる。ガリレオニュートンの世界である。古典的物理学の世界である。ここでは、メディア界・原自然の主客相補性、想像力性が欠落している。
 結局、物質とは、差異・無となった「メディア」であると言えるだろう。これは、差異・無という様態である。連続・同一性の平面である。ヴェールである(ウィリアム・ブレイクが、ヴェイラValaと呼んだものである)。この現象という覆いを、通常見ているのである。この覆いにおいて、主客二元論が生起しているのである。物質主義の覆いである。これは、錯誤である。錯視である。近代主義は、これを徹底したのである。唯物論的現象主義を帰結したのである。そして、近代資本主義もこれとパラレルである。近代合理主義、近代自我主義である。ある意味で、完璧である。しかし、現代物理学革命が起きる。相対性理論量子力学。そして、現代哲学革命が起きる。ニーチェフッサール。また、現代文学革命が生起する。D.H.ロレンス。現代美術革命が生起する。セザンヌ
 しかし、問題は、この現代革命が、普及していないことである。いまだに、市民の認識は、近代主義の枠内にある。意識の遅れがある。主客相補性、不連続差異論のメディア界性が、現代革命の意味であり、これを、生活に適用すべきである。もっとも、量子力学の叡知は、テクノロジーに活用されてはいる。しかし、日常意識においては、活用されてはいない。また、経済においても、真に活用されてはいないだろう。主客相補主義を、全領域に活用すれば、世界革命となるだろう。自然と人工の相補性があるのである。物質は、原物質・原自然・主客相補性(メディア・エネルゲイア)・「想像力」・第5の力(原4つの力)・メディア力に還元される。ロレンスが、「原形質」と呼んだものである。これは、いわば、脱構造性である。分離と非分離の「自己同一」の世界である。そう、ドゥルーズガタリが、離接と呼んだものに相当しよう。
 とまれ、このメディア界革命は、感覚・知覚・意識そして身体において何をもたらすだろう。それは、メディア界的世界・社会・文化の新構築を意味するだろう。それは、資本主義を変容するだろう。近代的憎悪主義から脱却した、想像力・創造力・歓喜力による経済である。ウィリアム・モリスが想像した芸術的社会経済であろう。憎悪の資本主義から、歓喜の資本主義へ。後者は、想像力資本主義だろう。想像力叡知的資本主義だろう。これは、想像力叡知経済である。当然、政治も、想像力叡知政治となる。私利私欲の政治・行政は、終焉する。
 最後に、このメディア界とイデア界との関係はどうなるだろうか。これは、稿をあらためて論じたい。