アイデンティティ問題;近代的自我と後近代的自我

アイデンティティ問題;近代的自我と後近代的自我

自我のアイデンティティ欲求は何処から来るのか。それは、不連続的差異論から言えば、イデア界からである。超越論的主観性として、イデア界である。あるいは、間主観性、相互主観性としてのイデア界・現象界である。
 しかし、近代主義とは、イデア界を否定して、近代的自我・合理主義をアイデンティティとする。これは、イデア界への否定反動としての近代的自我・合理主義である。(この問題は、デカルト哲学に鋭く反映されている。デカルト哲学は、イデア界への両義的反応である。即ち、コギトとは、イデア界的であるが、いわゆるデカルト合理主義は、イデア界的否定的である。だから、デカルト哲学は、近世の哲学である。)つまり、反イデア界的自我合理主義が近代主義である。イデア界は否定され、排除される。否定・排除は暴力であり、権力であり、狂気である。(この否定に関しては、後で、考察しよう。) 
 しかし、否定・排除とは、イデア界とのつながりを否定できないのである。イデア界の力の反動として、近代自我・合理主義を考えることができるだろう。この反動が狂気なのである。
 では、何故、このような否定によって自我のアイデンティティを確立しようとするのか。これは、メディア・現象境界の微分積分構造、即ち、連続・同一性構造によるのだろう。カントで、言えば、超越論的形式である。ここが、メディア界とイデア界を排除するのである。そして、排除されたメディア界とイデア界が、反動的に衝動化するのである。暴力・権力・狂気である。近代という時代の諸暴力の根因はこれである。
 結局、メディア・現象境界の連続・同一性構造が、近代的自我のアイデンティティを求めさせるのである。しかし、これは、同時に、「精神病」である。つまり、近代的自我主義=精神病(精神分裂症)=狂気である。これが、われわれが生きている世界なのである。メディア界、イデア界が反動的に攻撃化するのである。西洋文明の攻撃性はこれで、説明がつくだろう。
 さて、現代において、メディア界が、肯定されてきている。情報資本主義である。後、イデア界の肯定が必要である。コスモスである。イデア・コスモスである。イデア・コスモス資本主義である。後近代資本主義である。
 とまれ、後近代化のためには、心的身体の形成が必要である。心的身体が、メディア界とイデア界を発動させるものだからである。想像力、直観力の解放である。近代的自我は、これらを憎んでいるのである。そして、これは、創造力の枯渇となる。つまり、近代主義的市民の凡庸化である。
 近代を突破しないといけない。近代という狂気・暴力・権力の世界を突き抜けなくてはならない。イデア界の太陽を身心と社会にもたらさないといけない。

p.s. 近代的知識人は、メディア・現象境界主義である。ところで、ラカン精神分析を脱構造化すれば、不連続的差異論になるだろう。

現実界想像界象徴界 
   
     ↓(脱構造化)

イデア界ーメディア界ー現象界

ラカンの脱構造化とは、脱家族主義、脱母子化、脱父子化である。そして、自然的社会化することである。子どもの欲望とは、イデア界的なのである。これが、抑圧・排除される過程を、精神分析は、肯定しているのである。つまり、まったく、精神分析は、抑圧体系なのであり、近代主義そのものである。しかし、ラカンは、フロイトを越えて、イデア界的な世界を感づいていた。ラカンは、フロイトと脱フロイトの中間点にあるのである。

p.p.s. 共感性とは、「心」とは、「魂」とは、イデア界的心性のことだろう。これが、メディア界化されているのが想像力だろう。そして、身体的感覚的になっているのである。心的暴力とは、この領域が形成されていない人間が為すものであり、反動的憎悪性が発動するのである。この反動的憎悪的発話とは、共感性、「心」、「魂」を否定するものである。結局、それは、発する本人の共感性、「心」、「魂」、即ち、イデア界、メディア界を否定しているのである。この2項対立暴力は、増長して、狂気となるだろう。精神分裂的廃人となるだろう。

3p.s. シュタイナーが、悪魔と言ったものは、メディア・現象境界構造のことと考えられる。実際は、アーリマンとルシファーの2種類の悪魔が区別しているので、それに即せば、アーリマンが、連続・同一性構造で、ルシファーとは、反動的憎悪暴力であろう。
 しかし、思うに、憎悪とは、メディア・現象境界構造によって発生するのだから、アーリマンとルシファーはいわば、双子であろう。父権神話に出てくる双子の神話や兄弟の神話は、これに関係するのだろうか。
 とまれ、ニーチェの説いたキリスト教ルサンチマン(怨恨)、ロレンスの説いたキリスト教徒の自己栄光化も、このメディア・現象境界構造で説明できるだろう。悪魔とは、このことである。そして、近代主義は、狂気だけでなく、悪魔主義なのである。近代的知識人も悪魔主義である。つまり、本来の悪魔が天使になり、本来の天使が悪魔にされたのである。ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』は正しいのである。近代は、倒錯転倒しているのである。



検討問題:ルドルフ・シュタイナーの霊学と不連続的差異論:太陽とは何か

私は、霊・スピリットというものを認めない。この問題は、既述したので、ここでは、詳論しないが、それらは、イデア界の不連続的差異を、メディア界的連続性(形相)で捉えているに過ぎない。
 さて、後で、シュタイナーの霊学を検討したい。シュタイナーは、私見では、裏返しに、イデア界を捉えようとしたように、直観されるのである。彼が、太陽霊は、キリストであるということは、まったく否定するが、これを裏返しに見るべきだと思うのである。結局、太陽、日輪、恒星とは何かということになると思う。不連続的差異論から見たら、太陽とは何かである。物理学は、メディア界から太陽を分析するだけである。
 今、簡単に予見を言えば、太陽は、イデア界にいちばん近い存在ではないか、あるいは、イデア界の一種集約、縮図、縮約として、あるのではないかということである。それは、穴ではないか。前ソクラテス期の哲学者、名前が出てこないが、
(アナクサゴラス? 後で調べる。
http://philos.fc2web.com/presocra/anaxa.html

太陽は、天界の穴と呼んでいたことを想起する。そう言えば、沖縄では、太陽(てだ)は、穴から昇り、穴へ沈むのである。(参照
http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_contents/10033000.html
) 
 直観では、太陽は、イデア界とメディア界の境界である。あるいは、イデア界とメディア界のスリット、穴である。この穴から、スリットから、透き間、亀裂から、イデア界が「現れる」、「見える」、「顔を出す」のである。(そう、天の岩戸は、このことを言っているのではないか。)つまり、太陽とは、イデア界がほとんど見える領界である。後で、十分検討したい。

p.s. 思うに、肉眼で見る太陽は、日食時のコロナのようなものではないだろうか。つまり、イデア界の反映である。イデア界本体は、太陽の奥ないし斜め奥か背後にあるのである。穴、透き間とは、ゼロ度のことであろう。このゼロ度とは、イデア界の不連続的差異の共存調和界を内包しているので、イデア界の超光を反映して、太陽光ないし太陽となるのではないか。イデア・メディア界境界、IM境界が、(途中)



一つの時代の崩壊・解体・瓦解について:現代のカオスは、近代末=後近代創始の相転移期である


近代という病的な時代の終末のカオスが今、社会、世界に起っていると言えよう。イデア界を喪失・忘失した近代という精神病理が、今、社会を覆っているのだ。そう、近代という悪により、トラウマを受けて、自己は、混迷する。出口を求めて、もがく。答えは、むずかしい。理論と生活の両面が問題だからである。理知的に答えが出ても、生活において、健全とならなくては、まだ、カオスの中にある。あたらしいcosmosを創り出すこと。そのためには、不連続的差異である個が、不連続的差異である他の個と共生生活することが必要である。(ここでは、近代的自我は、消滅すべきであるが。)ポスト近代的共生生活が必要である。これによって、あたらしいcosmosが生まれるだろう。偉大な作家たちが、希求したあたらしいcosmos。近代のchaosからポストモダンの cosmosへ。
 サラ金、銀行、クレジットカード会社という高利貸の多重債務から逃れるには、cosmosの生活が必要である。立て直すには、cosmosの生活が必要である。近代の狂気から真に離れて、生まれ変わらないといけない。性的なカオス(ブログにも、トラックバックする性的なカオスがあるが)から性的な cosmosへと変容しないといけない。D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を猥褻とした日本の判決はまだ残っているのである。欧米では、60年代に、とっくに認められたのに。ロレンスは、性的なcosmosを表現しているのである。これは、一見、平凡に見えるが、偉業である。
 あらゆることが混沌の中にある。倫理の溶解。これは、近代のもつ利己主義、エゴイズムによる。自己の土台が、近代的エゴイズムに拠るからである。イデア界から生きていないからである。イデア界の生活、共生生活が必要である。このためには、イデア界的政治が必要である。それは、経済と社会のバランスを創る政治である。思うに、共生資本主義があるだろう。
 富とは何か。富とは、生活を豊かにするものではなくてはならない。それは、共生共創的にならなくてはならない。世界の貧富の途轍も無い不均衡。これは、狂気の沙汰である。近代の狂気による。
 cosmosとは、美でもある。cosmeticsの語源である。美の喪失があるのだ。美的生活の喪失が。これは、均衡の生活である。イデア界を喪失したため、醜悪な生活となったのである。ことばの美の喪失。美的言葉が必要である。それは、明快な明晰な明確な言葉である。また、金のために、生きるのは、醜悪である。お金は、豊かな生活のための手段である。重要な手段である。
 イデア界的cosmos、イデア界的共生生活を新生させないといけない。株で儲けても、単に遊興に使えば、遊興で閉じるに過ぎない。cosmosのための資本であるべきである。cosmos資本である。cosmos生活の資本でなくてはならないだろう。
 cosmos人。cosmosian.