x軸の1/4回転と現象界

ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_seigowchannel/now_events/0807mikyo.html
量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界イデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサール間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。