多文化主義と原理主義の相補性:その2と3:ポストモダンと不連続的

多文化主義原理主義の相補性:その2:ポストモダンと不連続的差異論


大澤真幸氏/ODA ウォッチャーズ氏の「三幅対」論は、非常に含蓄に富んだものである。(参照:http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=73748
http://blog.kaisetsu.org/?eid=294391
ここでは、両者の説く本件を、不連続的差異論から考察したい。


1.伝統/2.モダン/3.ポストモダン・・・F. ジェイムソン


1.コミュニタリアニズム(伝統)/2.リベラリズム(モダン)/3.リバタリニズム(ポストモダン)・・・大澤真幸


1.原理主義/2.リベラリズム/3.多文化主義・・・大澤真幸


1.伝統・共同体(安倍)/2.構造主義(小泉)/3.脱構造主義(朝日・読売の共闘)・・・ODA ウォッチャーズ


以上のような4種類の三幅対の構造がここにある。これは、同一の構造であり、様々に変形・変換できるものである。
 大澤氏は、1と3が同軸上にあることを述べ、また、ODAウォッチャーズ氏は、不連続的差異論から、現象軸において、それらが、プラスとマイナスに位置して、1/4回転(虚数化)で、それらが、隠蔽されることを述べている。これは、卓抜な数学的理論化である。
 さて、ここでは、この1と3の相補性について、不連続的差異論から分析したい。先に、私は、この相補性は、メディア界的であると述べたが、そう見るのが、的確であろう。そして、このメディア界的な相補性が、現象化しているのである。この分化は、イデア・メディア境界の力学から発していると考えられるのである。つまり、

(A)イデア界の1/4回転で、イデア・メディア境界が発生する。
(B)ここから、さらに1/4回転で、メディア界的相補性が形成される。
(C)また、さらに、1/4回転して、現象界的二元論が発生する。

となる。ODA ウォッチャーズ氏の理論化は、(B)と(C)の相互関係を述べていると考えることができる。これは、とても有意義な理論化である。これは、たいへんわかりやすい公式(メディア界の三幅対公式)となるだろう。
 さて、本件であるが、この問題は、実に、ポスト構造主義的な問題である。これは、私見では、ドゥルーズ哲学の矛盾に通ずる問題である。不連続性と連続性の混淆・混同がここには発生しているのである。だから、矛盾する多文化主義原理主義が同時発生・共存するのである。これは、イデア・メディア境界を源泉にしているのであり、イデア界への志向性を多分にもっているのである。これが、多文化主義ポストモダンリバタリアニズムの基底にあるものと考えられるのである(実は、このイデア界への志向性が、原理主義を生んでいるのだ)。このイデア界の志向性を、メディア界に留めると、原理主義から逃れられず、自ら、原理主義的になるのである。これは、一神教、一元論の罠である。だから、イデア界の志向性を徹底するには、脱メディア界化として、不連続性の理論が必要となるのである。即ち、多文化主義ポストモダンリバタリアニズムを徹底するには、不連続的差異化する必要があるのである。結局、不連続的差異論によって、ポストモダンは、真の多元論へと進展するだろう。

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多文化主義原理主義の相補性:その3:ポストモダンと不連続的差異論


本件に関して、ここで、整理したい。多文化主義原理主義との相補性は、不連続的差異論におけるメディア界の相補性に対応するということを先に述べた。そして、これは、不連続的差異論から見ると、イデア・メディア境界から発生しているのである。そして、この境界は、不連続性と連続性とが、同時発生しているのである。不連続性と連続性の相補性がここにあると言える。これは、多元性と一元性の相補性と換言することができるだろう。そして、これが、多文化主義原理主義の相補性ということになると考えられる。 
 問題は、多元性を真に進展させるためには、一元性、連続性を断ち切る必要がある。ポストモダンを進展させるには、この相補性から脱却する必要があるのである。とまれ、ODA ウォッチャーズ氏が説くように、朝日・読売の共闘によって、日本社会における多文化主義ポストモダンリバタリアニズムが、発動したと言えるだろう。(また、相補性の理論から、当然、原理主義・伝統も発動するのであるが。)
 結局、不連続的差異論が指し示す方向に、動くことが真の進展であるが、もう少し、事象を細かく分析して整理しておこう。イデア・メディア境界から相補性が発するのであるが、この境界の力学は、超越論性があり、この超越論的力動(エネルゲイア)に、相補性が駆動されているのである。しかし、多元/一元という相補性は、両義的であり、相互転換するのである。多元が一元に、一元が多元へと変換するのである。結局、ドゥルーズが陥った事態がここにはあるのである。多元性を真に多元性、ポストモダンを真にポストモダンにするには、超越論的力動を不連続化することが、絶対的に必須ということになるのである。不連続化によって、メディア界からイデア界へと進展して、真の多元主義、真のポストモダンが発生するのである。
 ここで、日本社会を見ると、不連続的差異化したときに、日本人はどういうアイデンティティを形成するかである。靖国問題が、焦点となり、太平洋戦争を、日本人自身が、真に解決しなくてはならない。ポスト靖国神社である。このときに、日本民族とは、何かという問題が発生するのである。ここで、ヤポネシア論が重要になってくる。日本人が、不連続的差異化したときに、自身の起源が問題となるのである。神道が問題となるだろう。ようやく、折口信夫の問題意識に達するときになったのである。私見では、ヤポネシア神道が考えられてくるはずである。靖国に変わる新しい「原理主義」が生まれるはずである。しかし、それは、もはや、一元論、一神教とはならない。ここで、新多神教が発生するのである。新多元主義である。これは、大変な問題となるだろう。一神教が解体することになるからである。ユダヤキリスト教多神教化されるだろうし、イスラム教もそうなるだろう。ヤポネシア多神教・新多元主義が、世界を変革するだろう。