ポスト一神教へ向けて:「父」と「母」とは一体である:二人の「父」

ポスト一神教へ向けて:「父」と「母」とは一体である:二人の「父」から「母」=「父」へ


女神(母神)の神話から見ると、根源的女神(母神)とは、天であり、同時に、地である。太陽神であり、大地母神である。太陽であり、月であり、海であり、等々。つまり、天地全体なのである。イデア界なのである。
 この観点から見ると、一神教の「父」=創造神とは、本来、女神・「母」でなくてはならないのではないだろうか。不連続的差異論の観点から見ると、創造神とは、イデア界であり、これは、「女神」・母神に相当する。だから、「父」とは「母」なのである。これは、きわめて意義深い視点である。
 思うに、メディア界において、「母」と「父」とが、矛盾同一している。そして、ここから現象化するときに、二項対立が発生して、父/母、天/地、知性/身体、等のヒエラルキー、即ち、父権制、父権的自我が発生するのだろう。「我は在りて、在り余れるものなり。」とヤハウェは、モーゼに教えた。メディア界は、「母」と「父」が相補性、陰陽、対極性を形成している。そして、「父」は、メディア界から現象界への移行において発生すると言えよう。そして、このとき、「母」は、排斥されて、劣位化されるのだ。しかし、これは、ある意味で、倒錯である。本来、「母」の方が、根源的であり、優位でなくてはならないからである。つまり、メディア/現象境界において、価値の倒錯化が発生すると言えるだろう。価値の転倒とも言える。価値がひっくり返しになるのである。つまり、倒立像が発生するのである。換言すると、捩れがここで発生すると言えるだろう。つまり、メディア界から現象界への転化において、捩れが発生しているということである。ここで、絶対的二元化が発生するのではないだろうか。そして、それが、超越神をもたらすのではないだろうか。
 メディア界においては、「母」と「父」とは相補性を形成している。それが、捩れて、現象界において、絶対的に二元論化されるということだと思う。だから、「父」とは、メディア/現象境界に存していると言えるだろう。これは、カントの超越論的形式に相応するだろう。ここで、現象界の光が発生すると言えよう。「光あれ」とは、ここで、発せられたと言えよう。この現象界・父権主義とは、「母」を排斥・排出・隠蔽しているのである。(魔女裁判等はここから発している。また、植民地主義もここからだろう。オリエンタリズムもそうである。)そして、これが、近代主義を形成する。
 この近代主義の飽和の後に、ポスト近代、ポストモダンが発生するが、それは、「母」の肯定となる。つまり、メディア界的相補性が肯定される。しかし、問題は、繰り返すことになるが、メディア界は、「母」と「父」の相補性・矛盾同一の領域であり、「母」は「父」となり、「父」は「母」となるのである。メディア界の「母」ポストモダン「母」は、純粋の「母」ではなくて、「父」化されているのである。これは、大変危険である。「母」のもつエネルギーが、連続的同一化されるからである。全体主義の危険が発生するのである。そして、この事態を、大澤真幸氏は、「アイロニカルな没入」と呼んだのである。革命、ファシズム原理主義・カルトもここにベースがあると言えるだろう。反動化の力学があるのである。
 次のポイントは、メディア界の「母」・「父」の相補性から、イデア界の純粋な「母」に回帰することである。しかし、ここでは、「母」=「父」であろう。そう、ここに、一神教の問題がある。一神教の「父」は、二重になっていると考えられる。一つは、先に述べたように、メディア/現象境界の「父」であり、一つはイデア界の「父」(=「母」)である。二重の「父」なのである。ここで想起するのは、旧約聖書において、神が二重であることである。ヤハウェエロヒム(エローヒーム)の二人の神がいるのである。そして、エロヒムは、複数形であり、つまり、神々である。今の私の直観では、エロヒムが、イデア界の「父」=「母」であり、ヤハウェが、メディア/現象境界の「父」である。思うに、この二重構造が、一神教には存していると思う。イスラム教のアッラーにも、この二重性があると思う。二人の「父」である。これは、いわば、「精神分裂症」を意味するだろう。イデア界の「父」=「母」こそ、差異共存の平和をもたらす「神」であり、メディア/現象境界の「父」が戦争・破壊をもたらすと言えるだろう。これは、キリスト教にも当てはまる。イエスもこの二重性をもっているだろう。「私は争いをこの世にもたらすために来た。」一人のイエスは、「母」=「父」の子である。女神・母神の子である。イシスならば、オシリスキュベレならばアッティスである。これは、平和をもたらすイエス、ゆるしの、愛のイエスである。しかし、他方、破壊のイエスがいるのである。それが、D.H.ロレンスが『黙示録論』で激烈に批判する、ヨハネの黙示録のイエスである。このイエスは、ヤハウェと同一であろう。
 ということで、「父」と「母」の根源的同一性を論じつつ、一神教の二重構造を提示することになった。そう、一神教の「脱構築」が必要である。それは、正しくは、一神教の不連続化である。それによって、戦争・破壊の「父」が解消されて、平和・共存の「父」=「母」のみとなり、後者は、もはや、一神教ではなくて、新たな多神教を形成するのである。ポスト一神教として、新母権多神教である。それは、イデア界的多神教である。
 そして、日本多神教ヤポネシア多神教であるが、それも、イデア界的な多神教として蘇るだろう。日本人の宗教的精神が復活するのだろう。


参考:エロヒム関係
http://www2.ocn.ne.jp/~makotomo/chapell4.htm
http://www.geocities.jp/ytbpch/nyuumon/sinnmei.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Elohim
http://en.wikipedia.org/wiki/The_name_of_God_in_Judaism
http://en.wikipedia.org/wiki/Tetragrammaton


p.s. 女神という言葉は、語弊があるので、母神(ははがみ、ははかみ、ぼしん)を使用する方が適切だと考える。また、同様に、男性神も父神(ちちがみ、ちちかみ、ふしん)と呼ぶべきである。


p.p.s. もう少し、一神教の構造について考えたい。一神教のベースを、メディア界に置き、そして、一神教の直接的発生源を、メディア/現象境界と見ることができるだろう。メディア界は、「母」と「父」との相補性の領域であり、一神教においては、「母」多神教、異教)を「父」が攻撃・排斥するのであるが、しかしながら、「母」という根源(イデア界)は潜在していると考えられるのである。これをどう考えたらいいのだろうか。
 これは、上述したが、いわば、「精神分裂症」なのである。この場合、メディア界の「母」と「父」との相補性が原点である。そして、この相補性を、二項対立に変換するのであるが、そのとき、排斥されるのが、「母」である。しかし、この排斥された「母」は、いわば、無意識となるのであり、消滅はしてはいないのである。この排斥された「母」が、もう一つの「父」となると思われるのである。一神教の「父」の恵み・慈愛・やさしさは、ここから発していると考えられるのである。
 だから、メディア/現象境界には、「精神分裂症」構造があるのであり、ここで、超越神としての「父」と、「母」としての「父」とが、「精神分裂症」的に発生すると言えるだろう。「精神分裂症」・統合失調症としての一神教と言えるだろう。「悪魔」と「天使」の分裂症である。思うに、精神病として、一神教を捉えることができるのかもしれない。
 以上から、一神教の二重構造とは、メディア/現象境界領域で発生する二項対立的分裂性をもっていることが判明した。
 では、イスラム教とユダヤキリスト教との違いは何か。理論的には、前者も二重構造をもっているが、しかし、前者は、ウンマ(共同体)をもっている点に特徴があるだろう。ウンマとは、民族的共同体ではなくて、インターナショナルな共同体である。この点は明確に注意されなくてはならない。日本の前近代的共同体とは、まったく異質なものである。それは、地縁・血縁による共同体ではなくて、正に、「普遍」的信仰による共同体である。今は推測するしかないが、アッラー信仰とは、イデア界信仰に近いと思うのである。イスラム教のタウヒード(同一性)とは、これは、イデア界を指すと見ることができるのである。イスラム教の唯一神とは、ユダヤキリスト教的なヤハウェではなくて、エロヒム「母」=「父」を指していると考えられるのである。その理由は、今村仁司氏が述べているイスラム教とスピノザ哲学の類似性に求められるだろう。後者の神は、イデア界の神であると考えられるからである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/438402164X/249-3508088-6643522
http://park5.wakwak.com/~asia/islam/sadr.htm
 イスラム教の唯一神ユダヤキリスト教唯一神とは、極論すれば、異質なのである。後者は分裂的であるのに対して、前者は、積極的にイデア界的であると言えるだろう。そう、イスラム教には、イデア界が生きていると言えるだろう。ユダヤキリスト教においては、イデア界は、分裂的、否定的であろう。
 結局、ポスト一神教と言うとき、それは、一神教における「母」=「父」=イデア界を掬い上げることを意味する。そして、このポスト一神教・新多神教イデア界的叡知主義への転換は、ユダヤキリスト教より、イスラム教の方がよりたやすいであろう。なぜならば、実質的にイデア界が積極・肯定・能動的であるからである。そして、日本多神教であるが、今は、実質的には死んだ状態である。結局、ポスト一神教とは、上述したように、ヤポネシア多神教ルネサンスとなるだろう。折口信夫の『死者の書』が、その出発点となる記念碑・「バイブル」となるだろう。