魂とイデア界:その2;メディアとイデアの接点の構造

先の考察は、散漫なので、もう少し、ポイントをしぼって考察しよう。橋本裕氏の日記に、”2月6日(月) 個体意識と「霊魂」”があり、そこで引用されている論考は同感できるものである。
http://home.owari.ne.jp/%7Efukuzawa/diary.htm
http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
それを参考にしつつ、再考しよう。
 
 魂はイデア界とつながっていると私は考えている。魂は、解剖しても、発見はできない。それは、主観性・思惟・精神等に関係するからである。しかしながら、身体とも関係している。だから、魂は心身性であり、不連続的差異論では、メディア界にあると言えよう。簡単に図式化すれば、


イデア界・・・メディア界(魂=心身性)・・・現象界(思惟、身体)


となろう。メディア界に想像力を入れてもいいだろう。
 さて、ここで、近代主義を考えると、フッサール現象学から言えば、現象界の主客二元論主義である。つまり、客体として物質を置き、主体・主観として知性や意識を置く。後者は、近代的自我・合理主義となる。そして、それ以外の主観性は排斥・隠蔽される。しかし、排斥・隠蔽されたものとは、メディア界であると言えよう。近代主義以降、このメディア界の復権が様々な形で為されてきた。例えば、芸術の分野では、ロマン主義象徴主義、あるいはファンタジーである(三者の差異はここでは無視する)。哲学では、スピノザフッサールポスト構造主義等がある。物理学では、相対性理論量子力学がそうである。あるいは、深層心理学や神話学、つまり、構造主義がそうである。
 このように多様に、メディア界の復権が為されてきたが、実は、それらは、いわば、ばらばらで、統一されていない。不連続的差異論が初めて、メディア界として統一したと言えるだろう。
 とまれ、これで、魂の「存在」は、検証されたと言えよう。結局、魂=メディア界とは、ポストモダンとも関係すると言えよう。簡単にまとめると、魂(・想像力)=メディア=ポストモダンである。
 結局、問題は、魂とイデア界の接点の問題である。イデア/メディア境界の問題である。接し方の問題である。私は先に大根源界と魂の回路のことを述べた。イデア界が大根源界と表象されるのは、メディア界のもつ構造・原型・連続性からと考えられる。一つのもの、一体のものと把握してしまうのだ。換言すると、メディア界は、極性をもち、揺らぐ、ある渾然一体となった領域である。対極・両極・相補性・陰陽の領域である。この極性的一体性が、イデア界を一つのものとして、あるいは、一体的なものとして、捉えてしまうと考えられる。
 では、緻密に、メディアとイデアの接点のあり方を見ていこう。メディアは、一体性であり、イデアは、不連続的多元性である。ここには、いわば、パラドックスがあるだろう。ここの壁を越えたのは、ニーチェフッサールであった。ここには、特異性の問題があるのである。メディアがイデアに接するときに、特異性が発生するだろう。この特異性の意識の起因は何か。それは、当然、イデア界の不連続的差異の特異性に拠ると考えられよう。メディアがイデアに接したときに、一体性の意識は、特異性を帯びるのである。何故かといえば、当然、イデアの不連続性を知覚するからと考えられる。ここにおいて、メディアという一種ファジーな「存在」は、不連続性・特異性によって限定されるのである。喩えて言えば、胎蔵界曼荼羅から金剛界曼荼羅への移行である。心身相補性から、心身包摂理念への移行である。ただ、不連続的差異論がこれを明確化する以前においては、メディアとイデアの接点において、不連続性と連続性が混淆・混同されることが、ニーチェフッサールを除いて、ほぼすべての知において生じたと考えられる。勿論、プラトンは、この壁を越えていたのである。
 では、最初の事柄であるイデア界と魂のつながりのことであるが、あるいは、大根源界と魂の回路のことであるが、それは、やはり、不連続性と連続性の混淆状態であると言えるだろう。魂は、不連続化・特異化することで、イデアになると言えよう。そう、不連続化・特異化した魂とは何だろうか。それは、真の理念であろう。あるいは、理念魂・理魂・理念知・理念叡知、等であろう。あるいは、叡知であろう。思うに、スピノザの「永遠の相の下での認識」とは、このことを意味しているだろう。認識として永遠・普遍があるのであり、魂や霊の永遠はありえないのである。結局、世界、自然、宇宙、森羅万象は、理念的に構造化されているのである。数学・哲学的現象なのである。