不連続的差異論の《メディア》について

ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》哲学であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。
 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導していると考えればいいのだろう。そう、連続的差異である多種多様な《メディア》が、シャーマニズムの正体ではないだろうか。アニミズムもこれで説明がつくだろう。多神教もこれで説明がつくだろう。
 因みに、一神教は、《メディア》が、同一性化するときに発生するものだろう。思うに、《メディア》の極性において、+極が強化された時が、一神教ではないだろうか。つまり、一神教とは、現象界の形成と関係しているのである。メディア界が1/4回転で捩れて、現象化するのである。この現象化において、メディア界が超越神となるのではないだろうか。旧約聖書において、ヤハウェが、偶像崇拝自然宗教を禁ずるのは、この1/4回転による捩れを考えれば、当然ではないだろうか。何故ならば、それらは、《メディア》であるからである。現象化が《メディア》ないしメディア界を排斥・隠蔽するのであることと、超越神が、偶像崇拝や自然崇拝を排斥・隠蔽するのは同じことであると考えられる。そして、有名な「光あれ」は、正に、メディア界の1/4回転による《メディア》である「光」の+化であろう。このプラスの「光」・+「光」は、「背後」にマイナスの「光」・−「光」を排斥・隠蔽しているのである。「背後」とは、内在的超越性・超越論性の領域であるメディア界である。ならば、超越神とは、暗い神ではないだろうか。否、違うだろう。それは、「光あれ」と言語行為・発話した超越神は、やはり、「光」の神である。《メディア》の+の極性の「神」である。そして、その神は背後にいわば暗い神を排斥・隠蔽しているのである。D.H.ロレンスが説いた暗い神dark Godが、これであろう。つまり、−《メディア》、−「光」の「神」である。メディア界において、光の神と闇の神が相補性を成しているのであるが、前者が後者を排斥・隠蔽という二項対立の二元論が、一神教に生じているのである。これは、正に、揺らぎのない神である。超越的善悪二元論である。これは、きわめて危険な神である。殺戮的神である。暴力・戦争・権力の神である。父権制の神である。結局、現象化・一神教が、近代主義へと展開したのである。主客分離二元論とは、現象化・一神教化の帰結である。だから、ポスト近代主義とは、ポスト一神教、ポスト西洋文明となるのである。
 ポスト近代主義とは、《メディア》を解放したのである。当然、「神」・超越神の死である。問題は、《メディア》の解放の意味である。+と−、存在と非存在の両極的「存在」としての《メディア》があばかれたのである。いわゆる、ポスト構造主義、即ち、デリダ脱構築主義やドゥルーズガタリリゾーム論は、《メディア》論なのである。これらは何を意味するのか。これは、物理学者ボームの述べた暗在系や内蔵秩序論や、マイケル・ポランニーの暗黙知の次元に関係すると考えられる。ODA ウォッチャーズ氏が明らかにしたように、現象界のx軸と直交するy軸としてのメディア界の「存在」の発見である。そして、これは、現代宇宙論ダークエネルギーの領域と考えられるのである。また、ダークマターとは、マイナスの《メディア》、負の《メディア》として、捉えられるのかもしれないが、しかしながら、量の過大さから見ると、ダークエネルギー総体においてダークマターを見た方がいいのかもしれない。
 まとめると、《メディア》の発見とは、文理統一論的な内在的超越性、超越論性の暗在領域の発見であるということである。そして、ポスト一神教であり、新多神教を意味するだろう。新母権制・新ガイア・コスモスの時代を意味するだろう。
 とまれ、ここで、《イデア》のことを考えなくては、不十分である。《メディア》の発見とは、逆に、《メディア》による権力が発生したということである。《メディア》は《力》である。《エネルギー》である。《メディア》は、「心」である。人の心を乗っ取るのである。あるいは、《メディア》は反動化すると言ってもいい。《メディア》は危険である。極めて危険である。思うに、『指輪物語』の「指輪」は、《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、聖杯伝説の「聖杯」も《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、秘教・神秘学における「知識・グノーシス」も《メディア》であろう。あるいは、オカルト主義も《メディア》であろう(占いや西洋占星術は、《メディア》によって説明できるだろう。つまり、連続的差異の等分割法則が、それらになったと考えられるのである。《メディア》的合理性があると考えられるのである)。これらは、悪用されると大変なことになるので、本来、秘密にされてきたのである。「黒魔術」である。《メディア》の解放であるポスト近代主義ポストモダンには、恐ろしい危険性があると言えよう。いわば、悪魔化するのである。近代主義も悪魔化であったが、ポストモダンの悪魔化は、人心の支配という点にある。洗脳・マインドコントロールである。ここで、オウム真理教創価学会、パフォーマンス屋の小泉首相、ITメディアのホリエモン、等を想起していいだろう。これらは、ポストモダン現象なのである。ポストモダンの反動化現象なのである。ここにあるのは、《メディア》の現象化・反動化である(参照:「アイロニカルな没入」、大澤真幸ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論)。《メディア》が現象化するときに、捩れて、自我同一化するのである。つまり、個人は超越神になってしまうのである。麻原彰晃池田大作小泉首相ホリエモン、他は超越神化したのである。いわば、現人神になったのである。「救世主」、「イエス・キリスト」になったのである。あるいは、《メディア》が憑依したとも言えるのではないだろうか。(思うに、暴力団とは、やはり、《メディア》の現象化・反動化によるのではないだろうか。その暴力団ヒエラルキーを見ても、それが、宗教集団と似ていることがわかるだろう。一神教化があるのである。)
 ということで、《メディア》に対する《イデア》化が必要なのである。それは、不連続化である。《メディア》が現象化するときに発する一神教化・反動化をそれを回避することができるのである。つまり、《イデア》化とは、反現象化であり、理念化である。これによって、《メディア》は、不連続的差異的多元化されるのである。つまり、「多神教」化されるのである。新多神教化である。現象化という超越神・一神教化から「免疫」されて、《イデア》化という不連続的差異的多元化・「多神教」化をするのである。個人は不連続的差異的個・特異性の個となり、新しい民主主義の地平が開けているのである。
 日本・ヤポネシア民族・文化・社会であるが、それは、衰退、衰弱したとは言え、多神教の心性を残存させている。そう、多神教的心性とは何か。それは、《メディア》を現象化させない心性である。日本人の場合、《メディア》が「心」となっているだろう。これはいわば、正に伝統的な、無意識的な心性であろう。この「心」の日本・ヤポネシア文化は、それを、理論・言語化していないのである。意識・認識・知性化していないのである。推測するに、古代日本、あるいは、前古代日本には、なんらかの《イデア》の文化があったのである。それが、時代とともに忘失されていったのである。しかし、いったん存在した《イデア》の文化や社会は、日本人のいわば血や生活世界となったのだろう。そして、それの象徴が「心」であろう。これは、知的に科学的合理性にも向うし、魂的に宗教性にも向うのである。《イデア》的《メディア》である「心」は、知魂性をもっているのである。
 しかし、この伝統文化が、脱亜入欧、戦後アメリカ文化化で、ほとんど喪失されるに至ったのが現代・現在である。ポストモダン革命によって、いわば、《メディア》の禁制が解かれたのである。《メディア》の現象化・反動化ではなく、《イデア》化として、日本・ヤポネシア多神教の復活が意味をもってくるのである。思えば、不連続的差異論が日本で誕生したのは、このようなことと関係するだろう。即ち、日本・ヤポネシア多神教=《イデア》的《メディア》文化・社会が、無意識のうちに、日本人の心性に存在しているのであり、それが、ポストモダン革命によって、開花したのである。

参照1:ODA ウォッチャーズ氏による《メディア》の哲学・数式化:

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117221

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117790

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=118255

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=119655

http://blog.kaisetsu.org/?eid=314624


参照2:大澤真幸ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論

http://blog.kaisetsu.org/?eid=291995

http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113