西洋文明の終焉と新地球・ガイア文明の創造へ向けて:不連続的差異論

西洋文明の終焉と新地球・ガイア文明の創造へ向けて:不連続的差異論という文理統一理論の創造


藤原正彦氏は、『国家の品格』(新潮選書)で、論理と情緒を対立させているが、私見では、知魂ないし知心魂ないし知心魂身体があり、心を中心に、知性の極と魂性の極がある。日常生活的には、知性ないし知心性を基軸にしている。つまり、知的合理性である。しかしながら、人間存在の基層・基盤・根源としては、魂性ないし心魂性があるのである。ビジネスは、知性ないし知心性をベースにするだろう。しかし、個としては、魂性ないし心魂性をベースにしないといけない。さらに、社会即ち、民主主義や「自由主義」(私としては、両者は、差異主義で括れる)の基盤は、心魂性の理念(イデア)化にあると思う。つまり、《メディア》の《イデア》化である。 
 とまれ、最初の問題に戻ると、藤原氏の言う「論理」とは、知性・知心性であり、「情緒」とは、魂性・心魂性、さらには、それの理念化・イデア化である。そして、「心」の両極的相補性として、それらを捉えることができるだろう。つまり、《メディア》としての「心」の両極相補性として包摂できるだろう。
 ところで、より根本的に考えてみると、「ダークエネルギー」である《メディア》が「心」の根源である。ここにおいては、《光》と《闇》が相補している。知性と魂性の相補性とは、本来、ここから発現しているだろう。しかし、知魂性と身体との関係はどうなるのだろうか。この問題は複雑である。基本から考えよう。E=mc^2(Eはエネルギー、mは質量、cは光速である)。《光》は、+と−の解をもつ。いわば、《メディア》解をもつ。しかし、現象化とは、+の発現である。+の《光》の発現としての現象界である。そして、+である現象界は、+−の《メディア》を1/4回転した領域である超越論界としてのメディア界に排斥・隠蔽しているのである。だから、知性は、+《光》であり、魂性は−《光》と言えるだろう。では、《質量》である身体はどうなのだろうか。これは+の解しかない。これをどう考えるべきか。作業仮説として、《質量》とは、ゼロ度連結・連続化における不連続的差異のいわば《濃度》ないし《密度》ではないか。ならば、エネルギーとは、差異の《濃度》(《密度》)とゼロ度化した《境界》の《力》(デュナミス)の二乗の積である。即ち、

エネルギー=差異濃度(密度)・ゼロ度境界力^2

である。
 ここで、先の心身の問題に返ると、《心》においては、相補性があるが、《身体》においては、それはないことになる。しかしながら、心身の相補性があると当然考えられるから、問題は単純ではない。簡単に言うと、波動と粒子の相補性とは、心と身体の相補性と換言できるのである。問題は、知性と魂性との相補性の意味である。ここでも直観で言おう。魂性とは実は、心身性である。心性と身体性との結節領域である。ヨガのチャクラに当たる領域である。だから、知性と魂性の相補性という考えは、不正確である。知性と身体との相補性があると言うべきである。そして、魂性は相補性の領域であるということである。また、《心》であるが、それは、魂性と知性との中間領域であるということになるだろう。

《身体》/《魂性》/【⇔《心》⇔/】《知性》

となろう。ここで、スピノザの心身平行論を考えると、その「心」は単に《知性》だけではなくて、《魂性》と《知性》との中間態である《心》であると考えられよう。
 では、+−の《光》とは何か。また、《光》とは何かである。単純に考えると、+《光》は知性である。では、−《光》とは何か。もはや、《魂》ではない。当然、《身体》でもない。それは、反世界の知性ではないか。そう、思うに、ダークマターの世界を形成しているのはないか。反現象界の知性である。ダークマター現象界の知性である。D.H.ロレンスが言った「暗い神」dark Godとは、この−《光》に相当するように思う。あるいは、《メディア》であるダークエネルギーであろう。
 ところで、そう考えると、心身相補性は2つの意味をもつのではないだろうか。+《光》の知性だけではなく、−《光》の知性があるから、二重構成となるだろう。つまり、2つの《魂》が存在するということだろう。つまり、2つの《知性》があり、2つの《魂》があるということだろう。この二重構成の知性・魂性をもつ《メディア》があると言えよう。ここで、私は《夢》の世界を想起するのである。あるいは、ファンタジーや想像力である。あるいは、ニーチェディオニュソスのことである。そう、ルイス・キャロルの世界を想起するのがいいだろう。『鏡の国』の世界と反世界の二重構造を考えてみるといいだろう。あるいは、《ナンセンス》である。裏返しの世界、正反対・逆の世界がある。反転の世界がある。これと−《光》の世界が関係すると直感されるのである。−《光》とは、x軸で言えば、原点より左側の領域であるから、ルイス・キャロルの反世界は正に、それに相当すると考えていいだろう。メディア界であるy軸を鏡とすれば、y軸=鏡を通過して、−《光》・反世界に達することとなる。だから、−《光》は超越論的次元の彼岸にあり、+《光》の現象界からは完全に不可視、無、非存在である。おそらく、これがダークマターと関係するだろう。つまり、−《光》の反現象界がダークマターの世界であると考えられよう。
 ならば、問題は、+《光》・現象界と−《光》・反現象界は、対称的であるのに、どうして、現代宇宙論の分析にあるように、圧倒的にダークマターの方が通常の物質よりも多量なのかという問題がある。直感では、それは、《メディア》を介しているからだと思う。つまり、ダークエネルギーと考えられる《メディア》を介して、ダークマターを計算しているからではないだろうか。+《光》・現象界は、《メディア》界からの1/4回転で発生するのである。しかしながら、《メディア》界全体が、現象界として顕現・発現・顕在・明在化しているのではない。未だ、未発の《メディア》が存しているのである。ここから見ると、現象界に対して、《メディア》界は、エネルギーとしては、一種デュナミス(「バッテリー」)のようなものを内蔵・内包しているのである。現象界を創造する以上のエネルギーが蓄えられているのである。だから、当然、−《光》も現象界の+《光》よりも多大・過大に存するのであり、−《光》・反現象界であるダークマターは、現象界の《物質》よりもはるかに多量に存すると考えられるのである。しかしながら、ダークマターの考えは、仮定に過ぎないだろう。虚像である。ダークエネルギーである《メディア》の《レンズ》を介して、ダークマターという虚像を作っているに過ぎないだろう。ダークマターはシミュラクルである。それは、幻像である。ただ、ダークエネルギーである《メディア》が超越論的に存在していると考えなくてはならないだろう。
 さて、更に考えると、現象界を顕現させるよりはるかに過剰なエネルギー(=ダークエネルギー:作業仮説)をもつ《メディア》界とは何だろうか。私は、そこに、デュナミスという言葉を使用した。そう、これは、《イデア》界である。つまり、《メディア》界にある《イデア》界とは、《イデア》/《メディア》境界を意味すると考えられよう。未発のエネルギーとは、この境界エネルギーと見ていいだろう。思うに、結局、まだ、創造は終了していないのである。創造過程にあるのである。というか、永遠にイデア界の回転があると考えられるから、創造の永劫回帰があるということだろう。未発のエネルギーが永劫に発生するのである。そう、螺旋的に回帰する宇宙創造があるのだろう。ならば、ビッグバンとは一回ではないだろう。複数回あるはずである。ここで、マヤやアステカの神話やインドの神話が意味をもつのである。複数の世界・宇宙創造神話である。
 とまれ、より根本的に言うならば、どうして、イデア界が存在するのかということになるだろう。数学的構造をもつ理念界であるイデア界がどうして存在するのかである。なぜ、完全無ではなくて、差異が存するのか。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そして、ロゴスは神であった。」プラトンは、善のイデアと言った。《イデア》界は善のイデアである。そう、思うに、《イデア》界は超光の《超電導》の元界である。《志向性》、《間主観性》の元界である。不連続的差異が無限速度の《志向性》=《間主観性》をもって共立・調和する大元界・大根源界と考えられる。《超光》の世界、《阿弥陀如来》=無量光の世界である。超叡智の世界である。ここでは、知即存在である。知即存在の《理念》の世界である。そう、初めに、叡智ありき、ソフィアありき。それは、数学的叡智である。数智である。マテーシス・ソフィアである。華厳宇宙に近い。そう、円周率・πの世界だろう。πソフィア、π叡智である。原時空間の数学的叡智が、初めにありきである。思惟/延長、時間/空間を包摂した数学的理念叡智であるイデア・ソフィアが初めにあるのだろう。この元叡智が、本来の《神》である。グノーシス主義で説く至高神である。そして、この至高神を、ユダヤキリスト教の『神』は、乗っ取ったのである。ユダヤキリスト教の超越神とは、本当は邪神・魔神である。それが、本当の《神》・至高神の王座・王位を簒奪したのである。グノーシス神話はその点では正確であると言えよう。創造神・デミウルゴスヤハウェとは、邪悪な神、悪魔なのである。ゾロアスター教で言えば、悪魔のアフリマンがユダヤキリスト教の『神』である。ユダヤキリスト教こそ、悪魔崇拝である。邪教である。【ここで、イスラム教について簡単に言及すると、それは、基本的には、イデア界の《神》を把握しているのである。ユダヤキリスト教とは、異質である。ヤハウェ崇拝ではない。ヤハウェアッラーは別の神である。ヤハウェは悪魔である。アッラーは、本来、叡智神である。強く言えば、不連続的差異論の《神》である。ただ、人格神化しているだけである。】
 最後に、何故、数学的叡智が根源にあるのかという問に答えるならば、存在とは智であるからである。無知は存在しないのである。無知は無力、無能、無である。つまり、叡知即存在なのである。無知即不存在である。だから、何故、数学的叡知が根源にあるのかという問は悪い問なのである。初めに知即存在である数学的叡智があるということである。これが、思惟・知性を生み、また延長・存在を生むのである。存在より、数学的叡智の方が先んじているのである。叡智の後に、存在や知が発生するのである。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そしてロゴスは神であった。」ロゴスは数学的叡智ということである。あるいは、数学・理念的叡智ということである。ピュタゴラスプラトンは正鵠を射ていたのである。ユダヤキリスト教によって、世界は、退化したのである。
 一つ付け加えると、数学的イデア論ピュタゴラスプラトン哲学)の問題点は、《イデア》界と《メディア》界の分離が不明確であったことである。これによって、イデア論の皮相な理解が生まれたのである。不連続的差異論が、両者を明確に分化したのであり、これによってピュタゴラスプラトン哲学は、完成したのである。これは、ポスト西洋文明、新ガイア文明の誕生を意味するだろう。ユダヤキリスト教は乗り越えられたのである。

参照: 2006年2月11日発行
『from 911/USAレポート』第237回
    「風刺画事件と静かなアメリカ」

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html