イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性

ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、スム=特異性・単独性が、捩れて、現象界の自我、即ち近代的自我に同一性化した点にあるのではないだろうか。つまり、捩れたスム=コギトになった点である。これは、パラノイア的狂気でもあろう。捩れた特異性=スムとは、反動性ではないのか。つまり、捩れとは、反動ではないのか。この点については、別の稿で考察したい。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身平行論を打ち立てて、ポストモダンポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参照:二十四節気
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズム原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会の構築という理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義としてもつのであるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義ファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。

p.s. ホリエモンには、特異性があると言い、それが、現象界的に反動化したと述べたが、本来、特異性はイデア界性であるから、特異性の共立志向性をもつはずである。そうならば、彼は民主主義を目指すはずであるのに、「格差」社会を志向した。これは何故か。これは、上述した、捩れ=反動性に関係していると思うのである。
 問題は、特異性が何故、反動化したのかである。確かに、捩れ=反動性=現象界化が主導的であったという点に求められるのであるが、特異性は、単独性であるから、その反動性に対する内在的批判が生じるはずである。時価総額云々にはならないはずである。
 今、直感で言えば、特異性を涵養する《教養》が欠落していたのではないかということである。特異性の涵養、それはどういうことなのであろうか。それは、一言では、共感・倫理性の涵養ということではないか。《心》の涵養ということでもいい。《仁愛》の涵養でもいい。しかし、問題は、特異性には、内在性として、それらがあるはずである。共感性・倫理性・心・仁愛の胚芽が、特異性には内在しているのである。それは、涵養・「教養」する必要があるのではないか。そう、イデア界=特異性の「成長」・展開・発展への《欲動》ないし《欲望》が、本来、あるのだろう。しかし、その《欲動》・《欲望》が充足されないと、イデア界=特異性の欲求・志向性が充足されないと、反動で、代償を求めるだろう。そう、渇望としての、権力欲があるのではないだろうか。餓えたイデア界=特異性の欲望が代償として権力を求めるのではないか。つまり、マイナスのイデア界=特異性の欲動が、権力・支配衝動となるのだろう。
 このように考えると、ホリエモンの場合、内在していたイデア界=特異性の志向が充足されずに、餓えて、マイナスの状態になり、権力・支配衝動へと反動化したのではないだろうか。それで、反民主主義、時価総額の発想が生まれたのではないだろうか。衆院選挙の立候補にも、権力欲の意味があったのだろう。そう、換言すると、ルサンチマン・怨嗟・怨恨である。正に、イデア界=特異性のマイナス、反動である。
 つまり、イデア界=特異性の種子があるのだろう。これが、健全に発芽しないと、マイナス・反動化して、権力・支配衝動となるのだろう。つまり、イデア界=特異性の種子が光を得ないと、暗黒化して、邪悪化するということだろう。この光が広義の《教養》ということだろう。ホリエモンには、惜しむらくは、《教養》が欠落していたのである。《教養》なき世代の悲劇である。《教養》なき国の悲劇である。 
 しかしながら、《教養》は、本来、読書が好きならば、誰でも付けられるものである。《無教養》が生まれるには、《教養》に対する嫌悪・憎悪等による排除があるはずである。それは何か。それは、父エモンの影響ではなくて、時代の影響ではないだろうか。70年代初期の生まれである。それは、日本社会がオイルショックを経て、バブルへと向かう時代に少年期を送ったことを意味する。正に、拝金主義・物欲・情欲の時代である。そのような社会風潮に染まって、《教養》を憎悪したのではないだろうか。というか、日本社会において、教養主義が崩壊した時代であるので、その影響を受けているということであろう。それは、思うに、新人類の発現と重なるように思う。イデア界=特異性の心性の涵養を排斥するという野蛮な風潮である。即ち、近代主義である。物質主義である。近代的合理主義である。どうも、今日、戦後の近代的自我・合理主義のつけが回ってきたようである。日本社会の衆愚化は、これに関係しているだろう。ここで、急に、教養と言っても遅いだろう。それは、いわば、ヴィンテージである。
 痴愚的なテレビや雑誌等は見てはいけない。携帯を捨てて、読書隠遁せよ。