ポストモダン時代における近代的自我という「精神病」の構造分析

ポストモダン時代における近代的自我という「精神病」の構造分析


近代的自我というパラノイア性については、既に論じ尽くした観があるが、ここでは、それを、不連続的差異論からより精緻に構造分析したい。
 既に、問題は、メディア界から現象界への捩れによって発生すると述べている。しかしながら、近代的自我が精神と物質の二元論を作った点を的確に構造化しないといけない。前近代と近代の違いは、メディア界の有無ではないだろうか。中世においては、メディア界が活動していて、主客の連続性があった。ルネサンスは、その個的発展と言えるだろう。そして、近代においては、主客が分離するのである。これは、メディア界から現象界への「捩れ変換」において、メディア界を決定的に隠蔽したことを意味するだろう。これは、イデア界から見ると、1/2回転だろう。ガウス平面への直交方向への捩れを無視して、ガウス平面上で考えると、プラスX軸がマイナスX軸へと変換するのに等しいだろう。そして、プラスY軸がメディア界に相当する。そして、マイナスX軸は、現象界で、プラスX軸のイデア界とは180度回転した正反対の、逆さまの位置にあると言えるだろう。これが、近代的自我の位置である。そして、これは、不連続であれ、連続であれ、差異のまったくない、同一性の世界である。同一性の個体の世界である。揺らぎゼロの世界である。2項対立の世界である。善悪二元論の世界である。そして、自己中心主義(「自己中」)・利己主義の世界である。冷戦の世界である。
 思うに、ガウス平面において、さらに1/4回転する。それは、270度回転である。それは、最初のメディア界と正反対の位置にある。しかし、ここでは、志向性は、イデア界の方向にあるだろう。即ち、最初のメディア界(プラスのメディア界、+メディア界としよう)では、連続性の志向性が主導的であるということである。dd1/dd2/・・・/ddnからdd1〜dd2〜・・・〜ddn(〜は連続の記号とする)という連続志向性である。それが、第二のメディア界(マイナスのメディア界、−メディア界としよう)では、逆になり、dd1〜dd2〜・・・〜ddnからdd1/dd2/・・・/ddnというイデア界への、不連続性への志向性が主導的になっていると考えられるのである。
 思うに、これが、ポストモダン時代に相当するだろう。そして、当然、イデア界への回帰を志向しているのである。ここで、反動として、「アイロニカルな没入」が発生すると言えよう。おそらく、それは、プラスのメディア界への反転なのだろう。
 さて、ここで、本件を考察するならば、ポストモダン時代における近代的自我の様態の問題である。もし、近代においてなら、近代的自我は、病理的にならなかったはずである。なぜならば、エネルギーの流れがそういう方向にあったからである。しかし、ポストモダン時代においては、《メディア》が解放されるのである。近代の固定していた二元論が解体されるのである。典型は、デリダ脱構築理論である。それは、量子力学の相補性の世界が、意識において出現した時代ということである。対極相補性の《論理》の時代となったのである。しかし、これは、単純にかつての陰陽世界の復活ではない。というのは、近代の後の時代ということであるからである。近代的自我の後の時代ということである。近代的自我は、近代的合理主義をもたらしたが、しかし、近代的自我の背面には、コギトがあるのである。コギト/近代的自我という二重構造が近代主義の意識にはあるだろう。(近代日本の場合、コギトが欠落しているのである。)この二重構造の近代的意識が、ポストモダン時代になると、主客融合性が入り、コギトを明確にもたないと、近代的自我は、その利己主義が拡張するのである。そして、反動化するのである。
 ポストモダンは、とまれ、近代的自我の二元論を解体する。しかし、コギトは、解体せずに、コギトと《メディア》を結合するのが本来である。これが、ポスト構造主義の《差異》である。このコギトの有無が、前近代とポストモダンとを真に区別するメルクマールと言えるだろう。そして、《スム》(我在り)と《メディア》が結びつき、ドゥルーズが言ったデカルト/カントの《差異》が生起するのである。そして、《スム》化した《メディア》は、当然、《イデア》界を志向するのである。これが、正嫡のポストモダンである。そして、この方向を徹底した理論が不連続的差異論なのである。
 さて、本題に返ると、ポストモダン時代の近代的自我はどうなるかと言えば、発動した《メディア》・主客融合のエネルギーに対して、主客二元論の近代的自我は、防御するようになる。即ち、抑圧し、排除する、あるいは、排斥・隠蔽する反動的態度をとるようになるのである。この反動性が非合理な衝動となるのである。何故ならば、近代主義の時代においては、根源の《イデア》の力は、現象化へと使われていて、《メディア》のエネルギーとしては、使われていなかったので、近代的自我は、健全であったのである。しかし、ポストモダン時代においては、《イデア》の力は、再び、《メディア》のエネルギーとして使われるのである。近代的形式がもう用済みなのである。《イデア》の力が、《メディア》を賦活するのである。(ここで、ラカンのリビドー/無意識論を想起する。しかし、リビドーは、《イデア》の力と読むべきである。リビドーとすると、知的認識性が欠落してしまうのである。)
 この賦活された《メディア》エネルギーを反動的に抑圧すると、近代的自我の「精神病」(いちおう、パラノイアが考えられるが、私見では、多重人格や分裂症になると思う。)になると私は考えている。《メディア》エネルギーの襲来なのである。そして、この時代の力に対して、現代の教育や社会は無力なのである。心身の《メディア》を意識させ、陶冶させる方向、《メディア》的《教養》の方向をオリエンテートしなくてはならないのである。そして、これは、先にも述べたが、コギト/スムの《差異》がなくてはならないのである。即ち、特異性への志向性を明確にしなくてはならないのである。即ち、何度も述べているが、《イデア》界への志向をもったポストモダンである。
 最後に、ポストモダン時代の近代的自我の「精神病」について、簡単にまとめると、それは、賦活された主客融合的《メディア》エネルギーと主客二元論的近代的自我との二律背反が起因と考えられるのである。つまり、それは、「精神分裂症」なのである。あるいは、人格分裂症である。人格多重分裂症である。なぜ、多重分裂になるかと言えば、《メディア》界は、多種多様の生成変化・多様体の世界だからである。