ポストモダン時代の近代的自我という「精神病」とポストモダン革命の

ポストモダン時代の近代的自我という「精神病」とポストモダン革命の構造
ポストモダン時代における近代的自我という「精神病」の構造分析:その2:不連続的差異論の視点から)


本件について、先に、賦活された《メディア》エネルギーを、近代的自我は、反動的に排斥して、「分裂症」的になると述べた。それは、内在する《メディア》エネルギーと近代的自我との乖離を意味するのである。しかしながら、直観では、近代的自我の反動性は、なにか、《メディア》エネルギーとつながっている印象があるのである。これをどう説明できるだろうか。
 これは、《力》と境界の問題だと思う。メディア空間(メディア界の意味で使用する)から、1/4回転して、現象空間(現象界の意味で使用する)へとねじれる場合、ゼロ度が、さらにゼロ化して、連続的差異が無化して、同一性が生起するのである。この同一性が意識においては、近代的自我となると考えていいだろう。ここで、メディア/現象境界が、メディア空間と現象空間を隔てているのであり、近代的自我にとっては、メディア空間は不可視である。換言すると、メディア空間は超越論的領域に存しているので、現象空間からは、不可視、非存在なのである。
 さて、他の問題は、知覚・意識・認識の問題である。イデア空間(イデア界のことである)の不連続的差異の、他の不連続的差異への志向性が、原意識である。原知性である。そして、メディア空間においては、差異は連続化しているので、ある差異の他の差異への志向性とは、双方向性になるだろう。(イデア空間においては、差異と差異とは不連続であるから、志向性は一方的になっているのである。)だから、例えば、連続的差異cd1と連続的差異cd2との志向性は、cd1⇔cd2となり、cd1がcd2に、cd2がcd1に「生成変化」(ドゥルーズガタリの用語)になると言えるのである。簡単に言えば、cd1=cd2という等価関係が成立する世界である。つまり、差異と同一性とが一致する矛盾同一の世界である。あるいは、cd1とcd2とが共鳴する世界と言ってもいいのである。多様体の世界である。「内在平面」(ドゥルーズガタリ)の世界である。ここでは、主客融合しているのである。主客一体の世界である。イデア空間での意識を不連続的志向意識と呼ぶならば、メディア空間での意識は連続的志向意識と呼べるだろう。
 次に、現象空間の意識であるが、ここでは、差異が消滅して、同一性の意識があるだけである。差異の志向性を意識と呼んだのであるが、ここでは、差異が消滅しているのだから、「無」意識である。無差異の「意識」である。これを、同一性無意識と呼ぼう。つまり、近代的自我とは、自我において無意識なのである。自己に対して無意識なのである。自我不明である。自我「無明」である。意識が消滅しているので、近代的自我は自分が何ものか不明である。本当のアイデンティティの喪失があるのである。差異意識が消滅して、同一性意識がここにはあるのである。それが近代的自我である。ここには、差異が無いので、他者がないのである。自我同一性が支配的である。思うに、これは、超越神のあり方と等価であると考えられるのである。自我同一性を世界に見るのである。そう、ヘーゲル哲学の世界である。マルクスの『資本論』の世界である。『ハムレット』のエルシノアの宮殿の世界である。カントの超越論的形式の世界である。貨幣形式の世界である。時価総額の世界である。父権制の世界である。構造の世界である。
 近代的自我・現象空間の同一性意識の世界は、どういう力学構造から発生するのだろうか。ゼロ・フィールドであるメディア空間(思うに、場の量子力学とは、ここを対象としているのではないだろうか)における力は、極性の力である。+と−の力である。(4つの力等はここから発現しているのだろう。)
 では、このメディア空間の極性力が、1/4回転するとはどういうことなのだろうか。それは、極性力がゼロ化して、同一性力となるということだろう。
cd1⇔cd2⇔・・・⇔cd3から、cd1ーcd2ー・・・ーcdnへと変換するのである。この二回目の1/4回転の力が、同一性力を生んだのである。とまれ、この同一性力は、メディア/現象境界を強固な壁としているだろう。現象の背後には何もないのである。ただ、現象平面(現象地平)があるだけである。MP境界はいわば絶対的な壁であり、メディア空間は排斥・隠蔽されている。この同一性意識=近代的自我は、二回目の1/4回転が能動的な場合は、単に二項対立的であるが、反動的ではないだろう。しかし、ポストモダン時代においては、三回目の1/4回転によって、反転するのである。即ち、現象空間を構築した同一性の力が失われて、近代的自我・同一性意識に、いわば、ひびが入るのである。無数に分裂すると言っていいだろう。つまり、近代的自我は、連続的差異の多様性に分裂するのである。これは、再メディア空間化と言っていいだろう。この点に関して、ドゥルーズは、時間の差異ということで、カントの純粋理性批判を活用して、才気をもって説明している。ドゥルーズは純粋時間によるひびの発出を述べている。しかし、この純粋時間とは、何だろうか。それは、ゼロ・フィールドの時間ではないだろうか。現象空間の時間を同一性の時間とすれば、それは、差異の時間、連続的差異の時間である。それは、光速の時間なのだろうか。それとも、超光速の時間なのだろうか。ここは、量子力学の時間とは言える。これまでの考え方からすれば、E=mc^2の世界である。E=hνの世界である。そうならば、光速の時間の世界である。そうすると、純粋時間とは光速の時間である。光速時間によって、近代的自我・同一性の意識にひびが入り、無数分裂するのである。多様体の世界である。
 では、この三回目の1/4回転によって、意識はどうなるのか。ポストモダンの意識とは何か。主客の相対主義がここで発生する。相補性の世界である。脱構築の世界である。しかし、これは、ポストモダン意識の一面に過ぎない。この問題は難しい。ここでも、また、デカルト哲学に返って、考えないといけないと思う。デカルト哲学は、コギト(我思う)とスム(我在り)の哲学である。自我認識と自我存在を統一した哲学である。問題は、「自我」である。これは、近代的自我であるばかりでなく、これまで述べたように、特異性に関わるのである。近代的自我は同一性意識であるが、コギトの「自我」はそれだけではない奥行きをもつのである。コギト・エルゴ・スムの哲学とは、自己認識と自己存在の結びつきを述べているのである。主観と客観との相互関係を述べているのであり、主観と客観の二元論である近代的合理主義や近代的自我を述べているのではないのである。つまり、デカルト哲学は、確かに、結果としては、近代的自我、近代的合理主義の生んだのであるが、出発点、基本、原理は全く別のものである。それは、主観と客観の相互性を探求する哲学なのである。(だから、松果体に心身結合の場を求めたのであろう。)コギト/スムの哲学とは、心身哲学なのである。簡単に言うと、コギトが心であり、スムが身体と見ればいいのである。(こう見ると、スピノザまで後一歩である。)心即身体である、これが、デカルト哲学の神髄だと思う。これは、正に、不連続的差異論で言うメディア空間ないしメディア時空間の様相である。ならば、デカルト哲学は、メディア時空間の自己意識を探求したと言えるだろう。《メディア》としての自己意識・コギトである。結局、ポストモダンにおいて、近代的自我・同一性意識が解体しても、この《メディア》の自己意識は残るのである。この《メディア》の自己意識とは、単に相対主義の意識ではありえない。なぜなら、あくまで、一人称の意識であるからである。これは、同一性としての自我ではなくて、特異性の自我である。自我ではなくて、「わたし」の意識なのである。特異性としての「わたし」である。
 では、何故、コギト/スムの哲学は、特異性の哲学であると言えるのか。その根拠は何か、である。それは、懐疑論にあると思う。他のすべてを疑っても、疑う私を疑うことができないとデカルトは言う。「疑う私」とは何か。それは、絶対的自己の根拠である。他をすべて懐疑し、自己だけを懐疑できない「私の思惟」とは、絶対的根拠としての「私の思惟」である。だから、これが、「我在り」となるのだ。いわば、絶対的な私の意識である。これは、一般化できない意識である。私固有の意識である。この私固有性こそ、単独性であり、特異性であると言えよう。この単独的自我の意識が、ポストモダン時代において、近代的自我が解体しても、岩のように残るのである。確かに、主客相対主義=相補性が発生するが、それの基底に単独性・特異性の自我が存しているのである。つまり、ポストモダンは、二重構造であり、表層が主客相対主義であり、深層が単独性・特異性の自我主義なのである。皮相なポストモダンポスト構造主義は、表層しか見ない。それは、流行に終わったのである。しかし、いわば、真打ちとしてのポストモダンがあるのであり、それが、単独性・特異性のポストモダンである。そして、それは、キルケゴールニーチェフッサールの哲学で表現されているものであり、それを不連続的差異論が明確に合理論化したのである。結局、単独性・特異性のポストモダンとは、《メディア》空間から《イデア》空間に回帰するのである。これは、必然である。何故なら、《イデア》空間という原動界・根源界が新たな1/4回転で、そのように志向しているからである。絶対超越論的な《力》(=《無》=「神、神々、神仏」)が、ミクロコスモスに、マクロコスモスに作動しているからである。スピノザが自由即必然と言ったが、これは、巨視的に、正しいだろう。そして、微視的な偶然の要素をポジティブに活用すべきである。
 最後に、簡単につけ加えると、時空間と認識の関係の問題である。ヌース理論では、空間次元の一つ高位の次元を認識次元としている。例えば、時空4次元に対して、認識は第五次元となるのである。この問題は実に核心的で、エッセンシャルである。ここで、直観を言えば、というか、これまでの考えでは、知即存在としての理念を、あるいは、知と存在とを包摂する理念を基礎としている。だから、時空間自体が、認識をもっていると言っていいように思えるのである。その認識を1次元高次にするのかどうかは問題である。これは、視点の問題である。例えば、イデア界の最初の1/4回転において、差異の境界がゼロ化して、連続化するが、このとき、差異自体は視点・認識をもっているだろう。光速の視点・認識である。つまり、光と視点・認識は同一と私は考えているのである。私たちが思考するとは、光が思考していると、私は考えるのである。ヴィジョン、イデア、イマジネーション、直観、それらは、光に関係するのである。だから、光より1次元高次の視点の次元を考える必要があるのだろうか。つまり、光は、存在であり、且つ、知ではないだろうか。量子が、粒子であり、波動であるというのは、このことではないだろうか。そう、スピノザの心身平行論に倣えば、思惟の次元と延長の次元があり、それらは平行しているということである。量子で考えれば、確かに、延長の次元があり、また、思惟の次元があるということになるだろう。しかし、量子の思惟とは、人間の思惟ではなくて、量子自体の思惟であり、1次元高次の視点=思惟を想定する必要がないのではないだろうか。つまり、差異に内在する視点・知で済むのではないだろうか。換言すると、差異は、延長として現出するし、同時に、思惟としても現出するということであろう。延長としては、量子・光子であり、思惟としては、視点・認識ということではないだろうか。思惟と延長の相補的二重構造があるのだろう。この思惟の次元を延長の次元よりも、1次元高次と見るべきなのだろうか。私の考えでは、思惟即延長であるから、両者同次元にあると思われるのである。もし、視点・認識が一次元高次にあるならば、それは、観念論になるのではないだろうか。超越論ではなくて、超越主義になるのではないだろうか。ヘーゲル哲学や超越神的発想になるのではないだろうか。あるいは、霊的世界観に通じるのではないだろうか。