反動狂気化した近代的自我のもつ支配・威圧・恫喝・暴圧的な「精神」

反動狂気化した近代的自我のもつ支配・威圧・恫喝・暴圧的な「精神」=《メディア》とは何か


本件については、数年来何百回となく検討したが、まだ、経験にぴたりとはまっていない憾みがあるので、また、反復して、考察することにする。
 そう、反動的な近代的自我の言語行為は、人を刺すのである。人の感情を踏み躙るのである。本人には、攻撃的であることが自覚されていないのである。この攻撃性はどこから生まれるのか。憎悪があるのは確かであるが、無意識の憎悪・傲慢さ・怨恨・反感である。無意識であるのがポイントであると思う。また、否定性をあげなくてはならない。不連続的差異論から考察しよう。
 《心》とは《メディア》空間にある。ここは、中間領域であり、イデア界と現象界両方に通じている。そして、人倫・共感性とは、イデア界の力から発しているが、特異性が教養、努力、苦悩等によって涵養・陶冶されて形成されるものである。しかし、特異性が人倫・共感性へと涵養されない場合は、反動化する。何故か。おそらく、生得的に、共感・倫理性の種子は誰にもあり、発芽するだろう。しかし、それが、ねじくれた場合が、反動なのである。何故ねじくれるのか。おそらく、成長過程での、歓喜の欠落があるのだろう。悲哀のある家庭で育った場合、子どもの心には、悲哀の影が印刻される。それは、無意識の暗さである。心の感情が闇となっているのである。ここには、ネガティブな感情が支配的である。憎しみが支配するのである。ニーチェルサンチマンである。
 ここでのポイントは、特異性が否定的になったということである。マイナスの特異性となったことである。これをもって、近代的自我を形成すると、二項対立が極端となる。自己優越主義的な攻撃性を帯びるだろう。他者への共感性が閉ざされているからである。一般に、近代的自我自体、イデア界性を排除する傾向があるから、邪悪な要素がある。悪魔的である。しかし、完全に排除するわけでない。イデア界性が無意識となるのである。
 しかし、ポストモダン時代になると、近代的自我は、反動性を強める。これは先に述べた。もっとも、反動性を強めても、無意識に特異性が肯定的ならば、共感性が小さなものでもあるのである。しかし、私が考えている攻撃性は、それとは異なる。やはり、特異性・人倫の基礎が否定・反動化されているものと考えられるのである。つまり、近代主義的反動性があるものの、それ以外の反動がある。即ち、根源的反動性があるのである。特異性の心性の否定である。個としての自由・歓喜を否定された者のルサンチマン(怨恨)である。シェイクスピアのイアーゴを想起する。
 一昨年にこの点に関して、劣弱な差異ということで説明しようとした。しかし、今考えるに、やはり、経験が大きいように思う。特異性の自由な成長を阻まれたことから発生する無意識のルサンチマンである。これが、ポストモダン時代の近代的自我の反動をともなって、異常な攻撃衝動をもった病理的性格になると言えるように思う。 
 つけ加えると、イアーゴがオセロを憎んだのは、オセロには、自分には否定された特異性の自由な発露があり、それに嫉視して、憎悪したのである。その憎悪とは、歓喜への憎悪である。自由への憎悪である。スピノザの『エチカ』の視点から言えば、悲しみ、悲哀の心から発する憎悪である。喜びを完全に否定された特異性の心は、怨みに満たされる。喜びの心の表情や言葉に接すると、自分の悲しみ、悲哀が刺激されて、反動的に、反感・憎悪を催すのである。歓喜を否定された特異性の闇の心、これが、今日、日本社会の壮年・若年層にあるのではないだろうか。オウム真理教ライブドア、去年の衆院選挙/小泉支持、等々、どうも、日本社会にルサンチマンが狂気的に衝動化しているように思える。ファシズム全体主義の危険である。


補足:
一つ大事なことをつけ加えたい。それは、否定された、ルサンチマンをもつ、反動的な特異性は、中年になると、はっきり心身的危機を迎えるだろう。精神病や身体の病気になる可能性が高いと思われるのである。これも、偉大なスピノザ哲学の視点から説明すると、否定的な特異性は歓喜が欠落しているから、イデア界から発するエネルギーが衰退するので、そうなると考えられるのである。否定的な特異性の心とは、イデア界の力と共鳴する歓喜の心がないので、イデア界の根源的な力によるエネルギーによって賦活されないから、エネルギーが枯渇して、反動的な衝動に駆られて、ますますエネルギーが衰退させて、心身的に病気を引き起こすと考えられるのである。