ヌース理論と不連続的差異論:ヌース理論の提唱者半田広宣氏と理論的

ヌース理論と不連続的差異論:ヌース理論の提唱者半田広宣氏と理論的交換をする


■はじめまして

はじめまして。
ヌース理論なるやや怪しげな宇宙論を展開しております半田と申します。
ヌース理論を検討問題として取り上げていただき、ありがとうございます。不連続的差異論、まだ,全部ではありませんが、大変、興味深く拝見させていただきました。
カバーされている範囲も広大で、とても野心的な思考の試みだと感じます。
いろいろと教えられるところも多く、持論を展開していく上でも大変,参考になります。時折、質問等もさせていただくかもしれません。そのときは何とぞ宜しくお願いいたします。
半田広宣 (2006-02-23 02:22:08)

■こちらこそよろしくお願いします

『光の箱舟』を少しずつ読んでいます。数学イデア論的発想で、とても、興味を引かれます。不連続的差異論は、数学に関しては、ODA ウォッチャーズ氏に負っていますので、
『不連続的差異論研究』をご覧ください。http://blog.discontinuousdifference.org/
哲学的には、ドゥルーズ哲学を、不連続性の視点から、批判的に進展させたつもりです。その後、ヌース理論に接しましたが、まだ、不連続的差異論の初期段階であったので、深くは認識する準備はできていませんでした。しかし、今は、不連続的差異論も、かなり、進展しましたので、ヌース理論を深く知り、不連続的差異論との比較論をしてみたいと思っています。こちらこそ、よろしくお願いします。
sophio renshi (2006-02-23 09:53:15)

■不連続的差異というタームに関して

不連続的差異論入門に目を通させていただきました。ドゥルーズ哲学の批判的乗り越えというのは極めてエクサイティングな試みですね。まだ全貌を把握しておりませんので、とんちんかんな質問になるやもしれませんが、大枠のところで一つ質問させて下さい。

「不連続的差異論」の不連続的差異という(理念)が持つ性格についてです。ドゥルーズは確か「差異と反復」の「理念」の章において、理念は〈差異化=微分化〉と〈異化=分化〉を共役的な関係に持つ、と明記していたような記憶があるのですが、ここで言われている不連続的差異とは、上の共役関係を分け隔てている差異とは違うものなのでしょうか。また、ドゥルーズはこうした理念の潜在的様態と顕在的様態にも触れ、その差異についても言及していたような記憶があります。ひょっとすると、不連続的差異とはその差異のことではないのかなっ、とも思ったりもしたのですが、見当違いでしょうか。宜しくお願いいたします。
半田広宣 (2006-02-23 14:48:59)

■核心的な問いだと思います:その1

半田様

どうもご高覧いただきありがとうございます。いただいた質問は、正に、不連続的差異論とドゥルーズ哲学とを分けるポイントにかかわります。おっしゃるとおり、差異化=微分化と異化=分化(これは、積分だと思います。あるいは、現象化です。)は共役関係と見ていいと思います。
「不連続的差異論入門」では、この部分を、ベルクソンハイデガーに通じる部分と考えています。言い換えると、ドゥルーズが、かれらから継承した内容だと思っています。
 しかし、不連続的差異とは、その共役関係を分け隔てている差異ではありません。後者は、強いて言えば、不連続的差異論のメディア界と現象界との境界に当たるでしょう。
 不連続的差異とは、ドゥルーズのその部分ではなくて、ドゥルーズニーチェから受け継いだと考えられる特異性(singularity)を指しています。ここのところは、いちばんのポイントだと考えています。簡単に言いますと、私見では、ドゥルーズ哲学は、一方では、ベルクソンハイデガーの「差異」を、他方ではニーチェの「差異」(=特異性・単独性)を同時に継承していて、「差異」哲学を構築していると思います。しかし、不連続的差異とは、後者のことであり、前者とはまったくべつのものと考えています。そして、後者の領域をイデア界と、前者の領域をメディア界と名づけました。ここが、不連続的差異論の核心のひとつだと思っています。
 私見では、ドゥルーズは両者を混同していると見て、両者を分離しました。これは、おわかりだと思いますが、樫村晴香氏の「ドゥルーズのどこがまちがっているか」というドゥルーズ批判に対する批判として、考えられたものです。樫村氏の論文がなければ、また、不連続性という視点がなければ、決して考え付かなかったと思います。
sophio renshi (2006-02-24 00:34:22)

■核心的な問いだと思います:その2

ところで、話が変わりますが、『光の箱舟』を読み進めています。よくわからない部分がありますが、急にわかる方が無理であり、わかる範囲で、理解していっています。五次元の二重性が興味深いものがあります。不連続的差異論で言うと、それは、メディア界に相当するように思われます。私の考えでは、「メディア」とは、思惟であり、延長です。スピノザの心身平行論の領域だと思っています。興味深いのは、ヌース理論は、思惟と延長とを質的に異なったものと見て、重ねている点です。これについては、わたしなりに、これから考えてみたいと思っています。

p.s. 第3章まで、拝読しました。とても、すばらしいと思います。不連続的差異論に通ずる考え方だと思います。ψ1〜ψ2の「物自体」ですが、それは、不連続的差異論のイデア界に相当するのではと思いました。読むのが愉しみです。
sophio renshi (2006-02-24 00:46:45)

■了解しました。

なるぼと、永遠回帰的なものの反復、反復不可能なるもの反復の方向性を明瞭に指し示すということですね。確かにベルクソンの差異には否定的なもの(現象的なもの)に従属した差異というイメージがあり、ニーチェの差異には肯定の対象たる差異そのものへの復元というイメージがあります。この対峙は、そのまま先日質問させていただきました差異の〈潜在的様態/顕在的様態〉の関係でもあると考えているのですが、確かにドゥルーズはそれらの差異については明確にはのべていませんね。了解しました。ありがとうございます。

ということは、わたくしの拙いイメージとしましては、

イデア潜在的様態=メディア界
イデアの顕在的様態=イデア

というような配置になりますが、このような解釈で宜しいでしょうか。
半田広宣 (2006-02-25 16:42:14)

■現象界/メディア界の幾何学的関係?

「光の箱船」はもう5年も前のヌース理論の内容なので、ちょっと赤面ものの部分もあります(^^)。現在は、数理物理的な構成も当時よりは、かなりしっかりしたものとなっています。不連続的差異論においてもイデア界と複素平面の関係が重視視されいるようですが、ヌース理論の方もスタンスはよく似ています。

ベルクソンの差異に関して言えば、当時、キュビスムの理論的リーダーであったJ・メッツァンジェなる人物が、キュビスムの絵画理論の裏付けをベルクソンに依頼したという話を聞いたことがあります。4次元と4次元時空という二つの異なる4次元をメディア界〈差異化-微分化〉と現象界〈異化-分化〉の基本的な配置と見なし、その共役性そのものの観察視点の運動を(ドゥルーズのいうex- plicate)をゲージ対称性の拡張構造と見ているのがヌース理論の基本アイデアです。
半田広宣 (2006-02-25 16:59:34)

■「イデア」の潜在的様態/顕在的様態

半田様

本件は、とても微妙なところがある問題だと思っています。不連続的差異論は、三層論で、現象界の超越論界として、メディア界があります。これは、ドゥルーズガタリの内在平面と通じると思っています。そして、イデア界は、メディア界の超越論的領域だと考えています。
しかし、これは、私の直観ですが、このイデア界は、同時に、現象界においては、特異性として、いわば顕在しているのです。ですから、現象界に対して、二重の潜在界がありますが、根源的な差異・イデアの世界は、現象界に直截的に存するというものです。その点では、ご指摘のように、「・イデア潜在的様態=メディア界
イデアの顕在的様態=イデア界」と言えるのかもしれません。答えになっているか、恐縮です。
sophio (2006-02-26 14:43:08)

■「共役性そのものの観察視点の運動」というヌース理論の基本アイデア

これは、よくわかります。これは、ベルクソンハイデガードゥルーズ的「差異」理論に、ゲージ理論を結合したものですね。この点での解明は、すばらしいと思います。
 不連続的差異論は、この連続的な「差異」とは別に、不連続な「差異」、特異性・単独性singularityを提起しています。これは、先に言いましたように、(キルケゴール・)ニーチェドゥルーズの「差異」を純化したもので、これとガウス平面と結びつけています。この点のさらなる解明・理論化が必要だと思っています。
sophio (2006-02-26 15:07:18)

注:
以上は、http://ameblo.jp/renshi/entry-10009244583.html
のブログのコメントです。
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■現象界・メディア界・イデア界の意味が分かりかけてきました。………1

 少しづつですが、不連続的差異論で使用されている、現象界、メディア界、イデア界の三層が織りなす関係性をヌース理論の構造論とすり合わせることができるようになってきました。不連続的差異論によってなされている既存の哲学・思想のクリアなマッピング作業がヌース理論の構造イメージを膨らます上で大変、役立っております。ありがとうございます。

 さて、メディア界=連続的差異で、イデア界=不連続的差異という言質について思ったことを一言述べさせていただきます。
 ヌース理論では、イデア界への侵入は思考と物質の一致によって果たされるものと考え、素粒子空間の構造をメディア世界の空間構造として捉えています。この構造はいわゆる西田哲学における場所の論理が働くところでもあり、この場所性は形而上学的伝統に従えば、あのプラトンが語ったコーラ(永遠の女/受容器)に相当するものではないかと思います。古代哲学的に言えば、ヌース(旋回的知性)が創造した世界を模造(現象世界)としてどこが孕むのか、という、その場の問題です。当然、この場は知覚=実在とするバークレーの観念論的位置を規定するものでもあるでしょうし、フッサール風にいうならば、現象化することの空無(メディア界においては現象化についてはいかなる言及もできないという意味です)を包括する超越論的主観性の位置をその臨界点として所持するような場の構成になっているはずです。この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないかと考えています。
半田広宣 (2006-03-01 18:16:40)

■現象界・メディア界・イデア界の意味が分かりかけてきました。………2

1より続き) その意味で言えば、メディア界とはイデア界を発芽させる意味での原-母胎空間と言えるような存在でもあり、ドゥルーズ=ガタリが「アンチ・オイデイプス」で取り上げた歴史における無意識機械の3段階的発展もメディア界の成長過程として捉えるのが自然なように思えます。

 「光の箱船」で着手したのは、まずはこのメディア界の構造性をトポロジーとして明確にしたいというものでした。その意味では構造主義が取り組んで来た人間の無意識構造をより具体的に指し示すことが目的だったと言ってよいと思います。ここではantares氏がhttp://ameblo.jp/renshi/entry- 10009447218.htmlで指摘されていた通り、ポストモダンポスト構造主義における連続的差異の範囲にある理論であることは否めません。

 ヌース理論の今後のシナリオとしては、素粒子空間とメディア界のトポロジー構造の対応関係を明らかにさせた後は、元素的世界へとその考察を進める予定でいます。いみじくもドゥルーズが「原子と分身」で語っていたように、絶対的な差異が直立していく世界は元素的なものの生成と一致するというのがヌース理論の考え方です。そうした意味で、ヌース理論の場合も、潜在的イデア=素粒子構造、顕在的イデア=元素構造という目安を持っています。
半田広宣 (2006-03-01 18:17:34)

■ヌース理論と不連続的差異論:1

半田様

どうも、丁寧なコメントありがとうございます。
1のコメントは、実に慧眼だと思います。私は、プラトンのコーラをどこに位置づけるべきか、ずっと悩んできました。直観では、メディア界ですが、イデア/メディア境界に限定したい気もあり、ゆらいでいましたが、メディア界とした方が明確だと思いますし、西田哲学の場所の論理も、確かに、メディア界にすれば、明快だと納得しました。コーラと同様に、イデア/メディア境界にしようか考えていました。もっとも、メディア界は、両義的ですから、コーラも場所の論理も、メディア界と考えればいいのだと思いました。
 さて、『ヌース(旋回的知性)』は、発想が、不連続的差異=イデアとまったく同じ考え方だと思いますが、1の後半の「古代哲学的に言えば、ヌース(旋回的知性)が創造した世界を模造(現象世界)としてどこが孕むのか、という、その場の問題です。」のところは、直観ではよくわかります。ここは、微妙ですが、簡単に言えば、メディア界です。そして、「この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないかと考えています。」の箇所ですが、これは、私がこれまで、考えたことがなかったアイデアで、新鮮です。すぐ答えられませんが、私のイメージでは、単独性は、不連続的差異そのものであり、また、イデア界そのものであり、それは、位置としては、イデア/メディア境界にありますから、果たして、「臨界点」にあるのかどうかは、考えたことはありません。しかし、私の考えでは、現象界においても、単独性=特異性=不連続的差異性は「顕在」しています。つまり、特異性/相補性/同一性という三重構造をもって個として「顕在」しています。結局、メディア界において、三重構造があるのですから、「臨界点」に単独性=特異性が俊立すると言えるのかもしれません。この点は後で検討したいと思います。(私が勘違いしているのかしれません。)
 
sophio (2006-03-02 23:00:24)

■ヌース理論と不連続的差異論:2

2のコメントですが、「絶対的な差異が直立していく世界は元素的なものの生成と一致するというのがヌース理論の考え方」はまったく不連続的差異論と共通だと思います。
 ODA ウォッチャーズ氏との合作である不連続的差異論に、深い理解を示された方は半田様が初めてではないかと思います。そして、この度、ヌース理論の目標が不連続的差異論と同じものであることがわかりました。これから、ヌース理論がイデア界をどのように数学的に整合化していくのかたいへん愉しみであります。どうも、たいへん有意義なコメントをありがとうございました。半田様とのコメントの交換をまとめて、ブログ上に掲載して、多くの人に、ヌース理論と不連続的差異論との関係ならびに両者の世界観を知るきっかけになればと思います。
sophio (2006-03-02 23:01:58)

■ヌース理論と不連続的差異論:3

半田様

フッサール風にいうならば、現象化することの空無(メディア界においては現象化についてはいかなる言及もできないという意味です)を包括する超越論的主観性の位置をその臨界点として所持するような場の構成になっているはずです。この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来するという筋書きになっているのではないか」の箇所をやはり勘違いしたようです。「臨界点」を、イデア/メディア境界ととれば、正に半田様のおっしゃる通りです。「この臨界点に至って、不連続的差異論が問題としている単独性が俊立し、ニーチェ的な永遠回帰の反復がイデアとして到来する」、この言葉は、正鵠を射ていると思います。私がいつも考えている単独性=特異性であります。
 不連続的差異論の真の理解者ができました。これからもよろしくお願いします。
sophio (2006-03-02 23:51:56)


注:
以上は、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10009608973.html
のブログのコメントです。