ジル・ドゥルーズ著「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」:ポスト

ジル・ドゥルーズ著「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」:ポストモダン・ポスト資本主義へ向けて


これは、ミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』のドゥルーズによる書評であるが、哲学的分析であり、ドゥルーズ哲学のエッセンスがあると言えるだろう。主著『差異と反復』の大部の書を読むのは大変であるが、エッセンスを知りたいという人は、60ページに満たないこの小著を読むことを奨めたい。
 さて、ここで問題になっている世界観を簡単に記すのに留めたい。

1)他者の構造の世界(可能性の世界):同一性の世界である。構造主義の世界である。日常の世界と言っていいだろう。
2)分身・天空的イマージュ群の世界
3)解放された純粋な《諸元素》の世界:あらゆるものの直立、表面の直立:他者の消滅

この三つの世界があるが、2と3とは、他者なき世界、別の他者の世界、あるいは、《倒錯者的構造》の世界である。不連続的差異論の視点から見ると、

1)現象界とメディア/現象境界(構造):同一性
2)メディア界:相補性
3)イデア界;共立性:共直立性

となるだろう。この図式は、ドゥルーズの差異哲学が、本来何を志向していたのか明確になる。私が以前述べたが、ドゥルーズの差異哲学の主旨は、3にあったのである。ただし、ここでのような2と3の領域の区別が、他では、あいまいになるように思えるのである。この書評は、1967年の出されたものであり、ガタリとのコラボレーションが為される以前の著作である。そして、ここでは、多元論が明快に現れている。ガタリとの共作によって、明確な多元論が現れたと思ったが、それ以前にドゥルーズは自身で、多元論を構築していたのである。
 さて、このドゥルーズの脱構造論を、経済論に適用できるだろう。資本主義は、一般に、経済を1の世界に閉じ込めてしまうものである。たとえば、ポストモダンが、2の解放(脱領土化)であっても、それが、いわば、反動化して、1への閉ざされるのである(再領土化:これは、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」を説明するだろう)。ドゥルーズは、3への変換・究極的脱構造化を述べているのだから、経済も3の世界へと変換されるべきであるということになるだろう。これは、私が、提唱するポストモダンの《イデア》化の必要ということと一致する。どうも、ドゥルーズは、自分の開拓した前線を、後に閉ざしてしまった観がある。この小著でははっきりと、3の根源的世界を述べているのに、その後の大著では、この点があいまいになった嫌いがあると思う。思うに、ドゥルーズ自身が混乱したのではないだろうか。
 とまれ、これで、ポストモダン資本主義の方向が明確になったと言えよう。ホリエモンや短絡的な新自由主義のようにしてはいけないのである。時価総額は、1の世界である。また、市場原理は、2から1への再領土化の方向に転化するだろう。ポストモダン革命とは、2の世界が発動したことである。しかし、知覚の形態が、明晰になっていないから、1の形式にもどってしまうのでる。つまり、相補性が同一性にもどってしまうのである。ポストモダン資本主義ないしポストモダン経済とは、1の世界の構築へと向かうことが必然であると考えられるのである。そのことが、ドゥルーズの論理で裏付けられるのである。解放された《諸元素》の世界へとポストモダン経済へ進展すべきなのである。それは、イデア界としてのポストモダン経済である。これは、確かに、ポスト資本主義になるだろうし、また、私が、何度も述べているルネサンス的資本主義の進展であると言えよう。
 後で、ポストモダン・ポスト資本主義について検討したい。


参考1:
ミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000028642/qid=1141458380/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-3508088-664352
ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」『原子と分身』所収
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid%3D1141457934/249-3508088-664352


参考2:不連続的差異論(はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880