身体と存在について、又は、心と身体について

デカルトのコギト・エルゴ・スムのスム(我在り=存在)を私は、身体と考えているが、どうもそう単純ではないようである。身体と言ったとき、それは、同一化されたスム(我在り=存在)であろう。
 ここでは、心身問題にざっと触れる。心と身体は二元論を形成する。しかし、心身領域つまり、心身が接合した領域がある。共感性の領域は、心身領域だと思う。(ヨガのチャクラとは、心身領域の諸中枢ではないだろうか。)この心身領域をどう見るべきなのだろうか。不連続的差異論から見ると、心身領域とは、正にメディア界である。量子・素粒子の領域である。ここでは、差異が相補性を形成しているのである。境界ゼロ化の差異連結状態である。差異1∞差異2である。又は、差異1☯差異2である。
 さて、ここにおいて、差異相互に強度(エネルギー)が発生するが、それは、光速と関係する。E=mc^2である。あるいは、E=hνである。では、ここにおいて身体とは心とはどう考えるべきか。身体は延長である。これは、他者=同一性の構造によるのである。同一性化された身体があり、また、同一性化された心がある。差異1/差異2が、イデア界とすれば、差異はもともと知即存在であり、また、共立、共直立している。これが、メディア界においては、相補性となっている。即ち、知∞存在、又は知☯存在であろう。そして、これが、現象界から見ると、心身領域、心身融合領域である。だから、身体は、本来、存在と見るべきなのだろうし、心は、知と見るべきなのだろう。同一性化されたものという前提で、差異が身体で、ゼロ化志向性が心に相応するだろう。そして、心身融合態が、強度・エネルギーだろう。
 ここで、共感性の心身融合態を考えると、それは、単にメディア界というよりは、イデア/メディア境界、イデア面をもっているだろう。というか、メディア界を広義にとれば、問題はないのだ。メディア界が、共感性をもつのである。そして、これは、教養や努力・苦悩経験から涵養されると言えよう。(教育とは、心身融合態の形成の意味がある。心身融合態の形成が、教養であろう。)
 さて、メディア界からイデア界への飛躍が必要なのである。これが、真のポストモダン革命である。これにより、メディア界の不安定から脱却して、イデア界の叡智へと到達するのである。イデア・ソフィア・グノーシスである。アマテラスの叡智である。差異は直立して、共立して、内在性が境界を構成しているのだろう。黄金の指輪ではないか。金環ではないか。あるいは、金のディスクではないか。金の円盤。フッサール間主観性。善のイデア。 
 ここで、西田哲学の、個体と個体との相互規定の発想を想起する。個体を差異とすると、差異と差異との相互規定のあるイデア界ということになる。ドゥルーズに倣えば、and(et)による総和の世界であろう。

不連続的差異1&不連続的差異2&・・・&不連続的差異n

dd1&dd2&・・・&ddn

である。これがイデア界である。これは、差異の共立状態である。この共立性をどう力学化できるのだろうか。素数を想起する。1とそれ自身の数によってしか割れない。2,3,5,7,11,13,17,・・・X
これらが、共立するとは何か。虚力とはなにか。±=ゼロを超えた《力》とは何か。やはり、虚数の力ではないのか。i化によって、ゼロ化するのである。だから、やはり、虚数力だと思う。つまり、1/4回転をもたらす虚数の力。即ち、
dd1idd2idd3i・・・iddn
となるのではないだろうか。iの力が、境界の力ではないのか。これは、虚時間でもあろう。そして、虚空間である。虚時空間である。 
 後の問題は、イデア界とメディア界と現象界の空間的関係である。ヌース理論では、時空4次元に、イデア界を直交させてあったと思う。不連続的差異論では、現象4次元に対して、メディア平面を直交させるのではないだろうか。そして、メディア平面に対して、さらにイデア平面を直交させるのではないだろうか。二回の1/4回転があるからである。一昨年、以下のような図を考えた。

イデア界(円)
_______  
      |
      |
      |メディア界(らせん)
      |
______|
現象界(4次元)

イデア面、メディア面(内在平面)、現象4次元となるのだろうか。後で検討しよう。