時間論:1

時間については、何度も、考察してきたが、未だに、明確な解明に達していない。最新の考えでは、時空間は、微分積分の同一力によって発生することで、結局、微分力が時間ということになるのだろう。
 ここで、少し脱線すると、十代の頃、動きというものを不思議に思っていた。なにかが眼前に現れて、消えていく。普通は、当たり前のことではあるが、これは、不思議だと今でも思うのである。人がやって来て、去る。車が走ってきて、去る。これは何なのか。
 動きと時間が関係する。動くとは何か。それは、同一化の連続化ではないか。即ち、差異1⇒差異2(同一性1)、差異2⇒差異3(同一性2)、差異3⇒差異4(同一性3)、・・・、差異n-1⇒差異n(同一性n-1)となり、Σ同一性kが、現象であり、動きではないのか。メディア界においては、差異の振動が考えられたが、現象界においては、同一性の「振動」があるのではないのか。あるいは、同一性の「速度」があるのではないのか。これは、同一性の力、同一力によるだろう。すると、微分力にもどってしまう。
 もう少し、精緻に、丁寧に考えよう。メディア界は、差異と差異との相補性の領域である。ここでは、差異が共振するのである。これは、連続的差異である。ゼロ化・ゼロ度における共振する差異である。ここでは、差異1⇔差異2の関係があるだろうが、差異1→差異2という極限値の志向はない。極限値は、やはり、同一性が問題になるときである。だから、2回目から3回目の1/4回転において発生するだろう。2回目の1/4回転とは、差異1☯差異2/差異1・同一性・差異2であり、3回目の1/4回転は、差異1・同一性・差異2即ち、差異1=差異2となる。3回目の1/4回転で、微分積分が決定的になると言えよう。微分を同一性とすると、同一性1、同一性2、・・・同一性nを連続・重層化するのが、積分であり、同一性1→同一性2→・・・→同一性nが現象である。そして、この→が時間ではないか。少し混乱しているのかもしれない。差異1→差異2→・・・→差異nとしてもいいのかもしれない。しかし、差異1→差異2という極限値においては、同一性1が発生する。だから、図式は、同一性1→同一性2→・・・→同一性nが正しいだろう。
 ならば、これは、微分によって形成された同一性の連続化である。この微分の連続化が積分であろう。つまり、∫dy/dx=f(x)=yであろう。そうすると、同一力とともに、連続力がないといけない。しかし、同一力の延長として連続力が発生するだろう。だから、同一・連続力と呼んでいいだろう。これが、時間や速度(動き)を生むのだろう。すると、時間とは、やはり、微分・同一力と見ることができるのではないだろうか。そして、メディア界の差異、共振する差異は、振動数をもっているのだから、この差異振動数の大小が、時間/速度に関係するのではないだろうか。
 ここで、デリダ差延という概念を想起するといいだろう。これは、時間が常に知覚において遅延することを説いたものと言えよう。これは、換言すると、メディア界の差異を、現象界の同一・連続性として捉えるときの遅延と言えるのではないだろうか。また、ここで、ゼノンのパラドックスも想起するといいだろう。矢が飛んでいるように見えるのは、現象界の同一・連続性によるのであり、メディア界においては、飛んでいないはずである。つまり、時間とは、現象界においてのみ存在する仮象ではないだろうか。シミュラクルではないだろうか。微分・同一・連続・仮象(マーヤ)・幻想力が、時間を発生させているのではないだろうか。思うに、ゼノンが正しいのではないだろうか。時間が進んでいるように見えるに過ぎないのではないだろうか。
 結局、時間とは、微分仮象幻想力であり、同一化の力に基づくと言えるだろう。時間とは存在していないということになるだろう。あるいは、時間は止まっている。時間以前には、不可分時空体があるのであろう。メディア界である。差異相補性である。つまり、差異相補時空性である。


p.s. 時間は仮象ということになったが、では、時間の不可逆性をどう説明するのか。覆水盆に返らず。同一性1→同一性2の→に決定的な意味があるのだろう。これは、同一性1←同一性2の←とはまったく異なる。→は、3回目の1/4回転を意味している重要な矢印と言えよう。 
 因みに言うと、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』で、白の女王の出来事の時間の順序が逆さまになる場面がある。指から血が出てから、指に針を刺すのである。この時間の逆転は、鏡の国だから、逆さまということで意味が通るのであるが、この可逆性は、メディア界の相補性による遊びと言えるのではないだろうか。
 3回目の1/4回転で現象界が発現する。しかし、ここから、反転するのであるが、反転は、時間の反転ではない。なぜなら、時間とは、現象界のものだからだ。4回目の1/4回転とは、マイナス1/4回転であろう。これは、差異の相補性を再導入すると言えよう。この相補性の再導入という点では、鏡の国の出来事は、表象としては正しいのかもしれない。あくまでも、メディア界のイメージ・表象としてであるが。


参考1:差延
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6


参考2:ゼノンのパラドックス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9