半田広宣氏のコメント「メディア界と潜在化したイデア」に答える

半田広宣氏のコメント「メディア界と潜在化したイデア」に答える


以下、半田広宣氏のコメントに、赤字で、答えたい。なお、次の考察のコメントである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10010580026.html#c10017319719

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《メディア界と潜在化したイデア


大変、ご丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
おかげさまで、こちらも不連続的差異論との目下のところの違いを整理することができました。問題はイデア界とメディア界の扱いですね。いろいろと考えてみましたが、言葉の意味合いからすれば、不連続的差異論の配置の方がどうも正しそうですね。混ぜ繰り返して申し訳なかったです。またまた手前味噌にはなりますが、イデア潜在的様態をメディア界とし、顕在的様態をイデア界とすればすんなり行くようです。
《これは、納得します。イデア潜在的様態=メディア界、イデアの健在的様態=イデア界、これは、私が考えている通りです。》


ただ、上の対応でちょっと疑問に思うのは、象徴界がメディア界に対応させられているところです。象徴界は不在を在のように見せかける父の子に対する機能のように思うのですがいかがなものでしょう。
象徴界は、メディア界ではなくて、メディア/現象境界と現象界の両方だと思います。私の考察は、試行錯誤的で、そのとき、そのときで、意識的に変化させています。申しわけありません。》


不連続的差異論がイデアを母性的なものと見なす動機はよく理解できます。ポストモダンでは、女なる者の不在(ラカン)と女なるものへの生成(ドゥルーズ)が叫ばれて久しいわけですが、ラカンは、この不可能な地平を現実界と呼び、ドゥルーズは内在平面と呼んでいましたね(個人的な対応ですが)。彼らが訴えている領域は、あくまでも潜在的イデア領域〈いわゆる無意識領域〉であり、これは不連続的差異論の文脈ではメディア界ということが確かにできると思います。
《これは、その通りだと思います。ラカンクリステヴァは、現実界を女性・母なるものと捉えていましたね。そう、ドゥルーズガタリの内在平面も、潜在的イデアで、メディア界的だと思います。
 ポストモダンの思想の図式化は、難しいですが、一番進展した面では、イデア/メディア境界ではないかと思います。イデアの顕在/潜在境界ではないかと思われます。というか、ポストモダンを、イデア/メディア境界で捉えた方がいいのかもしれません。しかし、これは、メディア界(イデアの潜在様態)の上端として捉えるべきではと思います。》


問題はこの無意識領域を意識可能な領野へと変換させることができるかどうかですね。そのとき、この領野はイデア界へと変貌することができる。わたしとしては、不連続的差異とは、このイデアの顕在性のことをおっしゃっているように思えます。
《ええ、そうです。私自身、かつて、ポストモダン的様相にあって、潜在態と顕在態の未分化状態で揺れ動いていました(分裂していました)。不連続的差異論は、この未分化状態を超克する理論で、不連続性の概念で、意識変容が起きるように思います。私の場合、メディア界的固着(靄、雲)が消失して、不連続的差異=イデアがクリアになりました。》


となると、不連続的差異論においては、具体的にどのようにしてこの絶対的な外部を抉り出そうとお考えになっていらっしゃるのでしょうか?とても興味があるところです。
《「具体的にどのようにして」の点ですが、これは、難問ですが、私の場合は、ドゥルーズの差異がベースになって、不連続化が、生起しました。つまり、ご存知のように、ドゥルーズ哲学の場合、差異が、理念(イデア)として、超越論的にあります。同時に、これが、「異化」して、現象化します。一種、ハイデガー存在論的差異に似ています。この差異は、まだ、潜在様態、つまり、連続状態、メディア界にあると思います。しかし、ドゥルーズは、特異性(シンギュラリティ)のことを、能弁に述べています。ですから、既述していますが、ドゥルーズの差異は、潜在様態と顕在様態で、揺れ動いていると見ることができます。私自身もそうでした。(ついでに言えば、潜在様態、連続状態のままだと、アイロニカルな没入が発生して、全体主義化、ファシズム化が起こりますし、現在の日本人がそうなっていると思っています。) 
 ここで、明確、明晰に、差異を不連続化すると、顕在様態(イデア界)になると思います。これは、不連続的差異・顕在的イデアの『ヴィジョン』・『直観』だと思います。私の意識では、そのようなヴィジョン・直観があり、それに基づいて、いつも、考察しています。換言しますと、潜在様態・メディア界は、想像力・イマジネーション・イマージュの世界で、顕在様態・イデア界は、直観・直観的ヴィジョンの世界だと思います。また、不連続化しないと、言語=同一性に囚われる危険があると思っています。不連続的差異によって、ロゴスが言語でなくて、顕在的イデア化すると思います。デリダのロゴス中心主義批判は、近代西欧主義言語=同一性=「ロゴス」批判だと考えています。
 絶対的外部の抉り出し方の問いに的確に答えていないようですが、今は、そのように、抽象的に言うしかないようです。後で、再考してみます。》


半田広宣 (2006-03-30 17:53:26)》