イデア界における不連続的差異の共立構造について:不連続的差異直立

イデア界における不連続的差異の共立構造について:不連続的差異直立力学としての多元的共立倫理性


イデア界の不連続的差異・イデアの共立とは、どういうことか。差異の内在的十字原力が、超光速で、多者の差異をキャッチ(直覚)するのではないか。ライプニッツモナド論では、相互反照があるが、反照ではなくて、直覚だと思うのである。即である。いわば、即覚である。分立しながらも、他者を直覚・即覚するのである。一種、他者に成ると言ってもいいかもしれない。これは、一致ではないし、同一性でもない。自己差異が、他者差異になるのである。化するのである。他化である。これが、共立の意味ではないだろうか。不連続的差異はそれ自体として存しつつ、他者の差異に化する、他化するのではないのか。これは、不思議な事象ではある。「私」が「私」でありつつ、他者へ転化、他化するからだ。これを、自他一致と考えていいのか。そうではないと思う。他化しても、自己は自己なのである。だから、自己における自他並存であろう。これは、一見、最初の1/4回転におけるゼロ化・ゼロ度の様相に似ているかもしれない。しかし、ゼロ化とは、一種の結合を意味するのであるから、ここでの、自他並存とは異なると言えるだろう。自他並存は、ゼロ化ではない。自己はゼロになっていない。自己が自己でありつつ、他者に化しているのである。
 いったいこの事態は何だろうか。不連続的差異であるとき、それは、他の不連続的差異と成る・化するのである(化成と呼ぼう)。イデアの他者化成である。これは、A且つBである。A且つ非Aである。これこそ、絶対矛盾的自己同一ではないのか。私が私でありつつ、他者であるという事態なのである。差異1が差異1でありつつ、差異2である。つまり、現象界とはまったく違う意味で、差異1=差異2となるのだ。正確に記述すれば、差異1≠&=差異2である。これは、自己多元性とも言えるだろう。差異多元性。ドゥルーズが、イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフの言葉を引用して、「私」の複数・多元・無数性を述べていた。とまれ、ここで、自己多元性、差異多元性を作業仮説しよう。だから、イデア界は、不連続的差異・イデアの自己多元性・差異多元性が存するということになるだろう。これが、共立性であろう。
 とまれ、もう少し、丁寧に考えよう。不連続的差異は特異性であり、己に徹するのである。スピノザのコナトゥス(自己保存力)である。つまり、不連続的差異は、特異性・単独性である己を認識すると言えるだろう。この自己特異性・単独性の認識は、当然、他者認識にも作用するだろう。そう、他者への志向性はあるが、つながっていないのである。他者とは、連続していないのである。それぞれの差異が不連続に直立しているのである。(なにか、ルイス・キャロルの世界を想起する。不思議の国や鏡の国では、登場人物はつながっていないだろう。)私が共感性というのは、ここでの不連続的直立における心性にも関係するだろう。不連続的差異に対する関係心性である。西田哲学の、「個物の相互限定」に近いようなものがここにあるのように思う。つまり、不連続的差異の相互形成としての共感性である。不連続的差異倫理である。不連続的差異共立共感倫理である。不連続的差異の直立・共立から発生する倫理的多元性(共感性)がここにはあるだろう。イデア界の境界とは、この直立・共立性のことではないだろうか。とまれ、不連続的差異の直立から、多元共立性が発生すると言えよう。だから、差異が差異でありつつ、他者に化成するというのは、この直立から発生する他者肯定のことではないのか。「個物の相互限定」である。不連続的差異の直立から必然的に発生する多元的他者肯定が、共立性ということだろう。つまり、不連続的差異の直立とは、他者の不連続的差異を直立として見るのであり、そこで、直立相互の認識力学、即ち、共立倫理が形成されるのである。だから、不連続的差異の間主観性としての共立倫理である。そして、これが、生活世界、来るべき生活世界の様相であろう。複数の不連続的差異の直立力学、これが、共立の力学であると言えよう。


p.s. ここでは、まったく、微分=差異は問題外である。ここでは、ドゥルーズガタリが『千のプラトー』で述べていたノマド的配分が問題になるように思う。不連続的差異直立の共立性のためには、複数の特異性を扱う「数学」が必要になるだろう。そう、複雑系でもあるだろう。ここでは、まったく一般論は成立しないのである。多元的特異性「数学」が構築されなくてはならない。不連続的差異1と不連続的差異2の共立力学と、不連続的差異3と不連続的差異4との共立力学はまったく別のものになるだろう。これは、不連続的差異多元主義である。これは、政治・経済で考えると一番分かりやすいだろう。国内の政治・経済ならば、国民の共立力学を考察しなくてはならない。また、国際的な政治・経済ならば、他国との共立力学を構築する戦略が必要である。例えば、アメリカ合衆国ソ連は、かつて、突出した超大国であり、覇権主義をもっていた。それに対して、共立力学は、冷戦や安保体制であった。しかし、現代、状況はまったく変化してしまった。この現状況また未来の構想によって、新しい共立力学が必要なのである。共立力学とは、基本的には、相互保存の力学であり、平和志向であることである。武力のための支出を削減する志向をもつと言えるだろう。そう、これまでの政治力学は、父権的な弱肉強食的な、二項対立的なもの、あれかこれかであった。つまり、同一性的二元論の政治力学であった。しかし、共立力学の視点は、それを乗り越えて、多元的共立性を志向するのであり、今日の多極主義のエポックにきわめて適切なものと言えるだろう。後で、この点をさらに検討したい。