差異共立問題:ポスト・ポストモダンないしパラモダン理論

差異共立問題:ポスト・ポストモダンないしパラモダン理論


後で検討したいが、政治経済社会文化自然総体としての世界の「科学」として、不連続的差異論を考えると、現象界、現象体は、イデアを内包したメディアの現象した世界・個体である。つまり、現象は、超越論的に、イデア/メディアを内在させている。簡単に言えば、(潜在界:イデア/IM境界/メディア/MP境界/)顕在界=現象界・個体である。近代主義は、顕在界を超越論的形式(MP境界)=構造によって分節化しているのである(カント)。しかし、これは、まったく、潜在界を無視した認識である。近代以後、この潜在界への探究が様々な分野・領域で為される。ポストモダンポスト構造主義と呼ばれた思想運動は、この潜在界の探究の運動である。
 結局、現実とは何かという問題でもある。現実とは、現象界だけでないのは、当然である。自然科学は、目に見えない、素粒子の世界を探究しているのである。また、哲学は、現象学によって、現象背後の世界を探究していると言えよう。超越論的世界を探究しているのである。それは、カントが理論的探究を放棄した物自体の探究と言っていいだろう。ポストモダン理論は、現象学をなんらかの形で継承する、現象背後の潜在界の理論であると考えていいだろう。
 しかし、不連続的差異論によれば、ポストモダン理論の潜在界の探究は中途半端であったのである。なぜなら、潜在界の二層を混同していたからである。即ち、イデア界とメディア界との混同である。とまれ、二層の潜在界がつきとめられたのであり、これによって、認識が決定的に革新されるはずである。例えば、現象が、二層の潜在界をもって力動していることがわかるのである。これまで、不連続的差異の内在するイデア界・イデア層が知られていず、メディア界・メディア層中心の潜在界をもって、現象の内在・潜在力学を捉えられていたと考えられるのである。メディア界・メディア層とは、連続的差異の潜在・内在界であり、そこは、差異が共振していると考えられるのである。ここでは、差異が生成変化するのである。量子力学の世界と考えるといいだろう。粒子は波動となり、波動は粒子となるのである。ここには、不連続性と連続性が並存しているのである。ここは、差異が共振するという連続性をもっているのである。
 しかし、不連続的差異論は、共振的連続性をもたない、根源の差異、不連続的差異を発見して、仮説しているのである。これが、究極の「素粒子」ということができるかもしれないが、しかしながら、これは、物質ではなくて、イデアなのである。ヌース理論で言えば、ヌース(精神)である。つまり、不連続的差異であるイデアが連続化・共振するものを素粒子と考えるのである。
 とまれ、そうなると、潜在界を認識するには、現実を理解するには、メディア界的理論、例えば、量子力学だけは不十分であることがわかるのである。不連続的差異の潜在・内在的現実があるのである。(思うに、ラカンが、無意識の原初を現実界と呼んだのは、鋭敏であったのだろう。)この事象を把捉しなければ、現実は捉えられないだろう。たとえば、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の真相を理解することができないだろう。
 ポスト構造主義を含めたポストモダン理論は、メディア界/現象界の理論、あるいは、IM境界/メディア界/現象界の理論であった。ここでは、不連続的差異、絶対的差異がないために、メディア界の差異は、現象界の同一性構造暴力に「感染」するのである。ポストモダンリバタリアニズムが、原理主義に変容するのである。ここには、現象界の二項対立・二元論・父権的暴力が作動していると言えるだろう。(パース哲学で言えば、第二性である。)だから、ポストモダン理論では、現実は、現象界中心に回帰してしまう。正しく言えば、知性、認識、意識は、メディア界/現象界の連続・同一性の世界の袋小路から脱出できないのである。ポストモダン理論が、今日、衰退したのは、必然であると言えよう。なぜなら、それは、近代主義を解体し、メディア界を解放したが、現実がそれに追いつき、もはや、理論的価値がなくなってしまったからである。そして、アイロニカルな没入といういわば反動が襲っているのである。(現代日本の小泉全体主義は、そういうものだと思う。しかし、フランスの新雇用法CPEへの大抗議運動は、ポストモダンの乗り越え、即ち、ポスト・ポストモダンないしパラモダン運動を感じさせる。)
 不連続的差異論は、この状況の脱出の地平を切り開いたと考えられる。それは、本来、ポストモダン理論がもっていた特異性・単独性の理論を進展・深化させたと言えよう。現象界の暴力を乗り越える不連続的差異の共立の理論となったのである。これは、あらゆる連続的構築物を批判して、脱構築して、根源的差異、絶対的差異、不連続的差異を剥き出しにするのである。ここにおいて、真の連帯、共闘、真の民主主義が可能となるのである。私見では、新自由主義は、社会主義化した資本主義の清算の意味をもち、ある意味でポストモダンである。しかし、当然、それは、反動的なのである。
 結局、潜在界を二層とすることで、現実の把捉が深化したのである。これは、認識・意識・知性の大革新であり、知的進化とも言うべきもののように思えるのである。個体は不連続的差異なのである。ここでは、一切の旧態の関係が破壊されて、新たな共立関係が発生するのである。現実は、新たに、イデア界・イデア層・不連続的差異層を含んで、展開することになるのである。三重構造の現実が今や出現したのである。そして、これは、永遠回帰を志向しているのである。そう、根源的差異・イデアが今や、現実において、現象において賦活され活動しているのである。イデアエネルゲイアである。イデアがエネルギーとなっていると言えるのである。これは、メディア・エネルギーとは異なる作用である。
 イデア・エネルギーとは何か。思うに、メディア界を介さずに、直接・直截に、イデアが現象界に作動するエネルギーのことではないだろうか。ここで、ドゥルーズラカン精神分析における想像界、イマジネールな世界を嫌っていたのを想起する。確かに、想像力の世界は、メディア界であり、連続・同一性を強く帯びるのである。優れた芸術は、脱想像力的である。例えば、ルイス・キャロルの作品は、メディア界的連続性を破壊して、不連続的差異的世界を形成していると言えよう。「モダンアート」も本来そうである。メディア界の破壊なのである。つまり、「モダンアート」は、本来、脱メディア界、脱ポストモダンなのである。つまり、イデア・アートなのである。(コンセプチュアル・アートと呼ばれるものもそうだろう。)
 イデア・エネルギーとメディア・エネルギー。後者は、量子力学のエネルギーである。しかし、前者は、ポスト量子力学、ポスト素粒子論のエネルギーであろう。今日、ニュートリノに質量が確認されて、標準理論は破綻したのである。メディア界がエネルギーならば、イデア界は、ポスト・エネルギーではないのか。あるいは、超エネルギーである。光がメディア界のものならば、それは、超光である。ポスト光である。ロレンスが黒い太陽dark sunを説いていたのを想起する。ダークエネルギー? イデア・超エネルギーとしてのダークエネルギー? デュナミスの超力? とまれ、ここで、ポスト・エネルギーとして、イデア・デュナミスを仮説しよう。無量光の力? 太陽を超えた太陽、黒い太陽?そう、可視の太陽は、メディア界的太陽である。量子力学的太陽である。それを、現象界的同一性の視覚で、知覚しているのである。しかし、イデア界の太陽を、量子論では見ていないのである。これは、当然、プラトンの善のイデアであり、ロレンスの黒い太陽に相当するのではないだろうか。
 とまれ、このイデアの力を理論化しなくてはならない。後でさらに検討したい。