差異と自我の関係:自我とは何か:自我は永遠不滅である

差異と自我の関係を明確にする必要がある。なぜなら、それは、「魂」の不死の問題に関係するので、きわめて重要だからである。先の考えでは、自我=魂=差異は、永遠不滅であった。そして、それ以前は、魂は、メディア界に、いわば、原型のように残ると考えた。また、それ以前は、魂は崩壊して、ただ、差異・イデアだけが残ると考えた。
 この問題は、霊・スピリットの問題とも関係するのであるが、私は、これまで、霊・スピリットとは、メディア/現象境界、MP境界から、つまり、構造界から見たメディアを霊・スピリットと考えた。即ち、連続的差異を構造で固定したものが霊・スピリットであると考えたし、今もそう考えている。霊・スピリットとは、メディア界の連続的差異を構造化したものと考える。
 さて、本題に戻ると、不連続的差異・イデアは知即存在であり、知性をもっている。それは、超越論的主観性であり、ノエシスノエマである。そして、ヌース理論を借りると、双対性、つまり、差異相互の双方向がある。これは、間主観性(相互主観性)と言っていいだろう。即ち、

差異1/⇔/差異2

である。ここでは、境界である/が意味をもつ。即ち、差異1と差異2とは、それぞれ、他者への志向性をもつが、接していないのである。(おそらく、鈴木大拙の《即非》という概念が一番近いかもしれないが、しかし、少し違う。)つまり、不連続な差異であるということである。直立・分立した、絶対的差異であるということである。数学で喩えれば、素数がいいと思われる。だから、
2/⇔/3/⇔/5/⇔・・・⇔/97/⇔・・・である。 
 メディア界では、⇔が、陰陽☯に変わって、差異同士は、共振するのである。2と3、3と5とが共振するのである。これは、ドゥルーズガタリが言う離接に当たるのだろう。ゼロ化によって、2と3が離れつつ、接しているのである。2と3が共鳴すると、おそらく、2×3=6の振動が生まれるのではないだろうか。
 では、イデア界の2/⇔/3は、どういうことなのだろうか。直観で言えば、2は自身が特異性の2であるという知覚をもち、他者が特異性の3であるという認識をもつのではないだろうか。メディア界では、共振して、6の倍数の調和数をもつ。現象界では、同一性が基本となり、2も3も、単なる数に還元されるだろう。自然数や整数の一部となるのだろう。イデア界の自己特異性認識と他者特異性認識とはどういう力学なのだろうか。2がどうして3を認識するのか。2の志向性とはどういうことなのだろうか。私は、イデア界は直観の世界だと考えている。それは、無限速度ないし無時間の世界である。何が無限速度であるのか。志向性が無限速度であるということだろう。つまり、志向性=直観=無限速度・無時間ということだろう。イデアとは、知即存在であるから、知覚・知性をもつが、それは、自己存在知であると同時に、他我存在知であろう。私は、鈴木大拙即非という概念をここに適用しようとしたが、それは、おおよそ相当するだろう。即非とは、即は=であり、非は≠である。つまり、=&≠である。だから、2=&≠3である。しかし、これは、やはり、正しくない。2=3ではないからだ。ただ、2は、3を直観認識するのであり、それが、2=3のような意識になると考えられる。とまれ、イデア界の直観志向性は、自他同時直観認識をもつと考えよう。そう、2はあたかも自身が3であるかのような他者認識をもつのである。思うに、ひょっとして、イエスが言った、自分のごとく、隣人を愛せよというのは、このイデア界の直観認識を敷延しているのかもしれない。しかし、このイデアの直観認識は、イエスの教えよりは、スピノザの能動的観念に近いだろう。愛というより、直観、認識なのである。勿論、ここには、私がこれまで述べてきた共感性が発生するだろう。この共感性は、メディア界の連続的情感とは異なり、不連続的共感性である。自我と他者とは切断されているのであり、その不連続性における共感性である。メディア界の連続的情感とは、正にべたっとした一体感、情緒的一体感であろう。(後で、この相違について、検討したい。)
 では、イデアの直観志向性=自他同時直観認識を前提として、本件の本論を考察しよう。以上から、自我とは、一つの差異である。例えば、差異5である。あるいは、差異13である。差異素数である。無数の差異素数がある。だから、自我は無数存すると言えるだろう。そして、自我はイデアであるから、永遠不滅である。例えば、「私」・自我は、差異素数11としよう。これが、3回の1/4回転をして、現象化する。つまり、「現世」に誕生するのである。しかし、メディア界的連続化、そして、現象界の同一性化を被っているので、「私」・自我は自身が差異素数11であることに気がつかず(ハイデガー存在忘却と言ったが、イデア忘却である。そして、プラトンが言うように、想起し、キルケゴールが言うように、反復する。)、差異素数13と共鳴したり、差異素数73と同一であるという錯誤(無明)を犯すのである。
 しかし、経験・教養等を積んで、自身が、差異素数11であることを知る。これが、永劫回帰である。そして、差異素数11は、無数、無限の差異素数と共立していることを直観認識するのである。これが、絶対的永劫回帰である。これは、親鸞で言えば、往相であろう。あるいは、悟りであろう。しかし、ここから、「現世」に言わば、帰還するのである。還相である。ニーチェツァラトゥストラの下山である。あるいは、禅における瞑想からの回帰であろう。そう、大乗仏教は、ここで、衆生の救済を行ったのである。阿弥陀如来がそうである。アミターバとは、無量光であるが、この無量光とは、イデア界の不連続的差異の直観志向性、超越論的主観性の相互性、すなわち、不連続的差異・イデア相互直観志向性、間主観性であろう。キリスト教も本来、大乗仏教と同質であろう。同時代の宗教運動である(もっとも、私は叡知運動と呼びたいが)。イエスは、イデア界を直覚認識した大悟者であり、そのイデア界の教え・叡知を民衆に説いたのであろう。そう、グノーシス主義のイエスが適切であろう(『トマスによる福音書』)。おそらく、そのイエスは、私は神であるとは言わなかっただろう。神の子とは言ったかもしれないが。そう、グノーシス主義のイエス(簡単に、グノーシス・イエスとしよう)は、意識の変容の必要を説いただろうが、信仰せよとはおそらく言わなかったに違いない。信仰を説いたのは、聖パウロである。聖パウロキリスト教を創作したのである。イエスは、叡知学を説いたはずである。グノーシス・イエスのはずである。
 このグノーシス・イエスに関して、昨今流行の『ダ・ヴィンチ・コード』は叙述しているのだろう。(盗作問題があるが、グノーシス・イエスは、伝統的なものなので、なんらか似てしまうのかもしれない。)また、D.H.ロレンスは、『黙示録論』で、『ヨハネの黙示録』を解体して、それを、意識変容のためのヨガ的、錬金術的書物と見ている。それは、グノーシス・イエスと相応するだろう。意識とは心身であり、心身的技法によって、意識変容を起こすのである。これは、また、東方キリスト教に伝わったものである。ヘシュカズム(ヘシカズム、ヘシュカスム)がそういうものだろう。結局、グノーシス・イエスの叡知学、叡知実践とは、東洋的なのである。アジア的なのである。それが、聖パウロによって、非合理主義にされてしまったと私は考えるのである。
 また、グノーシス・イエスは、最後の審判についてどう考えただろうか。おそらく、意識変容を主に説いて、それによる「神の国」の創造は説いたであろうが、最後の審判はおそらく否定したか、軽視したのではないだろうか。ニーチェに学び、且つ、キリスト教会衆派教会を経験したロレンスが説くように、最後の審判は、ルサンチマンの教えであろう。それは、暴力の教えとなる。
 最後に、今日の考察では、やはり、プラトンの魂の不死説を肯定する結果となったが、では、自我=魂が永遠不滅ならば、どういう意味をもつのか。こうなると、輪廻転生が正しくなる。現世の記憶をもつことになるだろう。だから、前世の記憶となるだろう。そうすると、閻魔大王も復活することになるだろう。そうすると、中世、日本の中世のようになる。『日本霊異記』や『往生要集』のようなことになるだろう。ダンテの『神曲』も復活する。ただし、最後の審判脱構築されるだろう。当然である。輪廻転生するのであるから。仏陀が輪廻からの解脱を説いたが、それは、どういうことなのか。それは、イデア界に永遠に留まることではなくて、イデア界の叡知を体現して、生きることではないだろうか。正に、大乗仏教である。因みに、華厳経宇宙について言えば、それは、ほぼイデア界の叙述であろう。ただし、調和主義が強すぎると思う。不連続的差異・イデアの共立調和と見るべきだと思う。また、理事無碍、事々無碍であるが、前者は、イデア界と現象界との結合であり、後者は、現象界の事実を特異性として、相互認識することではないだろうか。
 シュタイナーの言う霊・スピリットとは、結局、不連続的差異・イデア・「自我」と見るべきであろう。シュタイナーは、人間の心身を、自我/アストラル体エーテル体/物質体の四重構造と見たが、不連続的差異論から見ると、自我はイデア界に、アストラル体エーテル体はメディア界に、物質体は現象界にあるだろう。問題は、アストラル体エーテル体の区別が、不連続的差異論にはないことになるが、どう考えるべきか。アストラル体とは、チャクラに関係するだろう。それは、心身性であるが、イデア界に通じる領域である。思うに、イデア/メディア境界、IM境界ではないだろうか。エーテル体であるが、それは、「気」であるが、思うに、メディア/現象境界に相当するエネルギーではないだろうか。今、とりあえず、そうしておこう。


《参考》

ノエシスノエマ
http://www6.plala.or.jp/swansong/0208000taikakusen.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch1/u1/t6.html
ノエマイデア性★
http://72.14.203.104/search?q=cache:KMQitIApRlsJ:fruit.fnd.muroran-it.ac.jp/cognitive/2004/02.pdf+%E3%83%8E%E3%82%A8%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%80%80%E3%83%8E%E3%82%A8%E3%83%9E&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5&lr=lang_ja&client=firefox-a

即非の論理★
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_047.html

素数
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%95%B0

プラトン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3

往相回向
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%9B%B8%E5%9B%9E%E5%90%91
還相回向
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E7%9B%B8%E5%9B%9E%E5%90%91

★禅★
「禅 ぜん

仏教の修行法の一つ。 瞑想,または座禅のこと。原語 dhy´na は,静かに考える意で,その俗語形 jh´na が西北インドで jh´n と発音されていたのを,中国の漢字で禅と表記したもの。禅という漢字は,現在の中国音ではch⊂n,日本では zen と発音され,欧米では両者を併用する。

 古代インド文明は,瞑想の実践とともに起こる。前 3000 年というモヘンジョ・ダロ 出土の印章に,動物の姿をした神が座禅するデザインをもつものがあり,前 3 世紀のバラモン教文献〈ウパニシャッド (奥義書) 〉に,今日と少しも異ならぬ座法と心構えを記すものがあり,後 1 世紀の詩史《バガバッドギーター》に引用される。禅は,広く古代インドに行われた,精神統一の技術であるヨーガの一段階より発達して,仏教でその智的側面を深め,独自の禅定思想を生むのである。仏典に説く,戒定慧の三学や,四禅八定の体系は,いずれも他のインド宗教がもつ禅の苦行や,神秘な昇天の側面を否定し,自覚的な悟りの方法となる。戒は身体と言葉の乱れを静め,定は心を調えて本来の自己に目覚める方法で,慧はその成果にほかならぬ。四禅は,そうした定慧の境地をさらに細分化し,初禅より第四禅に至るあいだに,離俗の喜楽や,大小の尋伺の意識の消長を説くもので,最後にそれらの感情と意識のすべてが消え,行者の心の動きが完全に止滅した境地に到達するとされる。八定は,四禅がさらに深まって,有想より無想に徹する過程を表し,最後に形而上的な非想非非想定に到達するというもの。ただし,大乗仏教は,これを再び現実の修行に引き下ろし,布施,持戒,忍辱,精進,禅定,智慧という 6 種にまとめ,最後の智慧波羅蜜 (悟りの智慧の完成) のうちにそれらを統一する。

 紀元 1 世紀,中国民族が仏教を受け入れたとき,この国固有の神仙信仰や老荘思想によく似た禅への興味が,その定着を促す。老荘の守一・守心・存心の説は,仏教の禅と同義にみられた。とくに,当時の中国民族の最大関心は,飛行,発光,分身など,習禅に伴う奇跡に集まる。初期仏教史書の《高僧伝》は,インド僧のそのような超能力について記す。自己と他人の前生の姿を見る宿命通,未来を見通す天眼通,現実の苦悩と迷いを超える漏尽通の三つは,いずれも禅の成果とみられた。しかし,般若 (はんにや) や法華 (ほつけ),維摩 (ゆいま),涅槃 (ねはん),華厳 (けごん) など,大乗仏典の研究によって,神秘の信仰はしだいに是正される。静かな森で座禅する舎利弗 (しやりほつ) をしかる維摩や, 座禅を好む外道に近づくことを戒める法華の説は,大乗禅のあり方を教えた。法華経によって,大乗の諸教義と実践法を総合する天台智百(ちぎ)は,禅より止観への深化を主張する。 止観とは,空仮中 (くうげちゆう) の三諦 (さんたい) の理に収約される,仏の悟りに応ずる 3 種の実践のことである。仏教の歴史と思想は,すべてこの中に体系化される。とりわけ,具体的な座禅の仕方を説く坐禅儀は,天台のそれを最初とする。

 中国の禅宗は,智百の活動とほぼ同じころ,西域より華北に来たインド僧達磨を初祖とし,その 6 代を名のる曹渓慧能 (えのう) に大成される。禅宗の禅は,座禅や止観のことではなくて,人の心そのものとなる。智百が《法華経》に拠ったのに対し,禅は不立文字 (ふりゆうもんじ),教外別伝 (きようげべつでん),直指人心 (じきしにんしん),見性成仏 (けんしようじようぶつ) を主張する。達磨は,仏が経典の外に説きのこした正法を伝える 28 代の祖師であり,慧能は 33 代である。インドで単なる瞑想法にすぎなかった禅は,今や仏教の奥義となる。仏教の経典と修行法は,すべて衆生の病気に対する薬方にすぎぬ。正法は,本来健康な人間の対話である。人心を直指し,見性成仏するのである。ここには,人間の本性を善とする,中国民族の思考が,大きく働いている。のちに新儒教とよばれる宋学の形成に,禅が影響するのは当然である。唐の圭峯宗密は,かつて中国に行われた禅の歴史と思想を分類して,外道禅,凡夫禅,小乗禅,大乗禅,最上乗禅の五つとする。はじめの三つが初期の禅,大乗禅が天台止観,最後の最上乗禅が,達磨の禅宗である。最上乗禅は,一切衆生が本来清浄であり,どこにも煩悩というものがなく,汚れのない智恵の光がつねに輝きつづけていることに目覚めるだけで,そんな根源の心が仏であり,これを日常生活の上に発揮するのが,如来清浄禅であるという。宗密は,慧能の正系を自任するとともに,唐代仏教の新しい動きの一つ,華厳宗の法系に属した。宗密は天台の止観に対し,仏の悟りそのものを説く《華厳経》と,その説をいっそう純粋化する中国選述の《円覚経》によって,完全な自覚の哲学を構想し,新しく教と禅の統一をはかる。無念体上に本知有りとし,知の一字こそ衆妙の門であるとする。しかし,慧能以後の禅の主流は,本知よりも今の作用に重点をおく, 馬祖道一とその周辺の人々によって推進される。念を動かし心を起こし,弾指動目する日常行為のすべてが,仏性の作用である。貪嗔痴 (とんじんち) の全体,いっさいの善悪の所行が,仏性の動きである。随所に主となれば,立処みな真ならぬはない,著衣喫飯,澗屎 (あし) 送尿,日々の言動が,すべて禅にほかならぬ。むしろ,仏を殺し祖を殺し,五無間の業を造って,はじめて人は自由となる。禅の匂いをとどめるのは,いまだ真実の禅とはいえない。如来清浄禅より,そうした祖師禅への脱皮は必然である。馬祖以後,師祖たちの言行をまとめて, 語録とよばれる新しい型の本が登場する。語録は,経論の訓詁や,体系の書とは異なる,一人一人の個性の記録である。さらに,祖師禅はインド伝来の戒律に代わって, 清規 (しんぎ)とよばれる新しい僧院の集団規則を生む。馬祖につぐ百丈懐海 (ひやくじようえかい) の創意である。清規の特色は,集団による生産労働を肯定し,これを修行の作用としたことで,普請の法と名づけて師弟平等に力を合わせるのである。百丈は率先して毎日執労し,〈一日作 (な) さずんば一日食わず〉と自戒する。中国禅の特色は,そうした語録と清規の制作にみられる自由の精神にあり,これが在家の居士の参禅を導き,一般の文学や書画など,芸術の部門に影響する。さらにまた中国禅は,そうしたインド仏教の枠を超えたものとして,周辺の民族に広がる。早くよりチベット,朝鮮,日本の仏教に影響し,東南アジアの諸国にも拡大する。

 とくに,日本の禅は,鎌倉より江戸時代に至る約 300 年の長期にわたって,持続的に中国より伝来され,新しい開花をみせる。伝来と受容には,中国と日本の双方に,その理由があるけれども,もっとも大きい理由は,禅そのもののもつ新文化創造の契機である。禅は,すでに仏教の外に出て,中国民族の宗教となっている。禅の姿をとどめぬのが,本当の禅である。古来,中国の文明を受け続ける日本民族は,禅を学ぶことによって,受容より創造に転じ,中国のそれよりも,いっそう純粋な創造に成功するのである。禅という宗名すら拒否して,ひたすらに座禅に徹するとともに,全一の仏法を挙掲しつづける道元や,禅院の周辺に,学問,文学,工芸など無数の生活文化を生みだす中世日本の臨済禅は,方向を異にしつつ,ともにもっとも日本的である。道元の思想には,日本民族の域を超える国際性があり,臨済系の禅文化には,中世的な宗教文化の域を超える,広い近代精神の自在さがある。

柳田 聖山」 ネットで百科@Home

★アミターバ★
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Amitabha.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Amitabha
阿弥陀如来
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5

グノーシス主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html

★『ダ・ヴィンチ・コード
http://library666.seesaa.net/

★『ヨハネの黙示録』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2

★『トマスによる福音書』★
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061591495/qid=1144081481/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431

★ヘシュカズム★
http://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/middle/orth.html
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/StCatharina.html
http://www.orthodox-jp.com/westjapan/hist14.htm

会衆派教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E8%A1%86%E6%B4%BE

ルサンチマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3

★『日本霊異記』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8F%BE%E5%A0%B1%E5%96%84%E6%82%AA%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98

★『往生要集』★
「往生要集 おうじょうようしゅう

比叡山横川 (よかわ) の恵心院の僧都 (そうず)源信 が 985 年 (寛和 1) に斤述した書。 3 巻。 〈往生極楽〉に関する経論の要文を集め, 〈往生の業 (ごう) には念仏を本となす〉という思想を明らかにした平安時代浄土教信仰を代表する著書。 〈それ往生極楽の教行は,濁世末代の目足なり。道俗貴賤,誰か帰せざる者あらん〉に始まる序文が有名で,極楽に往生するためにはただ〈念仏の一門〉あるのみという信念から,一つには自身のため,一つには同行者のため, 112 部,617 文にも及ぶ多数の経論を引用して念仏実践の指南書とした。内容は (1) 厭離穢土 (おんりえど),(2) 欣求 (ごんぐ) 浄土, (3) 極楽証拠,(4) 正修念仏,(5) 助念方法, (6) 別時念仏,(7) 念仏利益 (りやく),(8) 念仏証拠, (9) 往生諸業,(10) 問答料簡 (りようけん) の 10 章 (大文) から成り,第 4,5,6 章が本書の中核部分で,念仏の正しい在り方を説く。ただ源信のいう念仏は,阿弥陀仏の姿形を観察する〈観想〉と,阿弥陀仏の名号をとなえる〈称名〉との両義に用い,どちらかといえば〈観想〉に比重が置かれ,また念仏以外の諸行を否定せず,鎌倉時代法然親鸞浄土教思想に比べて徹底さに欠けるところがあった。

 しかし,本書が後世の浄土教思想・文学・美術等に与えた影響は計り知れないものがあり,もっとも多くの人に読まれた仏書であるといえる。 斤述の翌年,宋の周文徳に付して天台山国清寺へ納められるや,たちまち道俗男女 500 人余りが帰依したと伝える。また日本では平安末期の《扶桑略記》に〈天下に流布せり〉と記すごとく,浄土教の発展に伴って普及し,念仏結社や講会 (こうえ) において本書が読まれ,念仏修行の指針となった。 法然は,本書を披覧して浄土教に入り,さらに本書を手引きとして唐の善導の《観無量寿経疏》をよりどころに浄土宗を開き, 《往生要集釈》など本書の注釈書 4 部を著している。文学では《栄華物語》や《十訓抄》《宝物集》などが本書の中の片言隻句を引用したり,本書に主題を求めている。美術では迎接 (ごうしよう) 形の阿弥陀像や聖衆来迎図 (しようじゆらいごうず) あるいは六道図や地獄変相図などが本書の影響下に成立した。江戸時代から明治の初期にかけて,本書の第 1, 2 章だけがひらがな絵入りでしばしば刊行され,六道の苦しみをいとい離れ,浄土をねがい求める〈厭離穢土〉〈欣求浄土〉の思想は強く人心をとらえ,日本人の心に地獄・極楽の観念を定着させた。
」ネットで百科@Home

★輪廻★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
★転生★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E7%94%9F

★『神曲』★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

華厳経
http://www.google.co.jp/search?hs=nEm&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

★シュタイナー★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC
http://members.tripod.com/~kurupira/s_syu.htm

★ヌースとシュタイナー★
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/1_c8e3.html
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/03/2_3cc3.html

★チャクラ★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A9