女性的なものが、今や、問題の核心になっている

女性的なものが、今や、問題の核心になっている


文学を一言で言えば、女性とは何かの探求だろうし、哲学もそうだろうし、自然科学もそうだろうし、工学もそうだろう。経済も、政治もそうだろう。一切合切がここにあるだろう。問題は、西洋文明は、これを、父の領域としてきたことである。神話・文化史的には、父権文明の視点である。
 しかし、今や、西洋文明=グローバリゼーションで、地球ガイアは、絶滅の危機に瀕している。日本の自然は、日本人に無視され、満身創痍、死に体である。愚鈍・愚劣な日本人に呪いあれ!
 思うに、現代は、西洋父権文明の末期にあり、今や新しい文明(文光と呼びたい)が、現れているだろうが、愚人たちは、何も気がつかない。問題は、女性的なるものである。これは、多くの女性にはわからないだろう。なぜなら、西洋父権文明化している女性がほとんどだからである。今日、女性的なるものである女性はいるのかわからない。とまれ、女性を見ていると、その余韻、残像は感じられるのである。
 それは、古代中国人が捉えた玄牝(げんぴん)だと思う。闇としての原宇宙である。神話的には、一般には、原初に混沌カオスが置かれるが、それは、一種後知恵だろう。父権的秩序(2項対立・構造主義的秩序)から見た、原初を混沌カオスと呼ぶのだと思うのである。光と闇との未分化の混沌である。初めに、ロゴスありき。このロゴスを父権的秩序のロゴスとするのは、誤りであり、デリダのロゴス中心主義批判とは、この批判である。原初のロゴスとは、玄牝のロゴスである。闇の原宇宙(以下、玄宇宙とも既述したい)のロゴスである。そして、この、言わば、玄ロゴスとは、不連続的差異であり、境界をもつ無数・無限のイデアだと考える。古代ギリシア哲学のヌース(精神)も、本来、このイデアを指していると考えられるし、ヌース理論のヌースの真意もこれにあるだろう。
 問題は、玄牝、玄ロゴスの総体をどう捉えるかである。今、ここでは、作業仮説として、直観を言えば、玄牝=玄宇宙(玄コスモス)=イデア界には、玄光、黒い光、闇の光が存しているのである。これは、また、フッサールの志向性、超越論的主観性/間主観性でもあると考えられる。この玄光=志向性が、イデア界を満たしているが、それの1/4回転によって、明光が生まれるのである。光の誕生である。光あれ。つまり、光の本体は、玄光、黒い光、闇の光である。それが、1/4回転で、ゼロ化して、共振・共鳴を起こして、極性化して、光になるのである。素粒子・量子=心身の創造・誕生である。大D.H.ロレンスが述べた黒い太陽・玄太陽dark sunとは、正に、これを表現していると考えられるのである。ロレンスの述べたコスモスも、この玄牝・玄宇宙であろう。名作『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇も、これを指すだろう。(さらに言えば、プラトンのコーラであるが、それは、一見、メディア界的であるが、思うに、1/4回転事象ではないだろうか。)
 では、玄牝、玄コスモス、イデア界の力学はどうなのか。玄光志向性の原動力がある。それは、また、不連続的差異の志向性であり、極限志向であるが、絶対的に不連続なのである。無数・無限の特異性としての志向性である。これが、1/4回転で、無限遠点的に、一致するように見えるのである。しかし、それは、フィクションである。シミュラクルである。無限遠点はフィクションである。それは、ゼロ化・空(くう)化に過ぎない。ゼロ・空フィクションである。
 とまれ、この玄光の志向性力学、玄光の1/4回転志向性力学が、イデア界の力学であると言えよう。これが、玄牝の正体・実体・真相・実相であろう。ミクロの黒い光たちが、1/4回転して、光、太陽となるのである。ミクロの黒い光たちが1/4回転によって創造するイデア/メディア境界面が、量子力学の世界であろう。そこでは、粒子と波動とが相補していると考えられる。粒であり、同時に、波動である。粒かと思えば、波であり、波かと思えば、粒であり、両者不分離なのである。 ODA ウォッチャーズ氏が説く矛盾性の調和空間=メディア界とは、正にこの領域を指すだろう。