不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア文

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア文明に向けて


不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性強度とは、ミクロの黒い光たち、ミクロの玄光たちであり、そのデュナミス/エネルゲイアの発動である1/4回転によって、原初的光=素粒子・量子(=メディア)時空間を発生させる。聖書の光あれである。エローヒームによる光の創造である。1/4回転事象において、イデア界のイデアの境界が、ゼロ・空化するのであり、イデア1とイデア2が、言わば、接するのである。この時、ゼロ度共鳴・共振が発生する。これが、素粒子・量子の生成を意味するだろう。即ち、共振するイデア・「ネットワーク」の生成である。(思うに、華厳経宇宙は、このメディア宇宙ではないだろうか。)つまり、ゼロ度となることで、イデア同士が共振して、振動・共振粒子が発生して、それが、波動となるということだろう。即ち、不連続的差異であるイデアが共振して、素粒子・量子となるということだろう。即ち、この共振する不連続的差異=イデアが、粒子即波動ということである。問題は、この粒子即波動の意味である。
 問題は、ベルの定理、非局所性にある。粒子即波動で考えると、無限距離を、超光速で、粒子即波動が移動する事態となる。これは、矛盾である。問題点は、観測の意味にあるのだろう。観測によって、量子の位置が決まったり、速度が決まったりするが、そこでは、ハイゼンベルグ不確定性原理がはたらく。しかし、この事象は、現象界(近代主義的自然科学)からの観測を介入させるから、発生すると考えられるのである。考えれば、量子の存するメディア界においては、粒子即波動であり、不確定なことはなにもない。例えば、ある量子q1があるとしよう。これは、メディア界においては、粒子p1であり、且つ、波動w1である。即ち、量子q1=粒子p1即波動w1である。
 しかるに、これを、現象界(粒子と波動を分離する二元論的近代主義的自然科学)の観点から見ると、量子を、粒子か、波動に分離させてしまうのである。もともと、粒子即波動である量子を、粒子と波動に分離するのは、誤りである。メディア界の次元を、現象界の次元から把捉するのは、誤謬である。例えば、光子である量子を、2つのスリットに通す周知の実験を行なったとき、スリットを通った光子が一個観測される。そして、どちらのスリットを通ったのかということになるのである。これは、愚問である。なぜなら、量子は、粒子即波動であり、波動自体が粒子であるのだから。光子は、両方のスリットを通ったのである。一個の光子が2つのスリットを通ったのである。これを、確率とするのは、誤りである。
 非局所性の問題に返ると、その問題が生じるのは、今述べたことに関わる。即ち、不確定な量子が、例えば、地球からアンドロメダ星雲の距離に存しているが、それが、観測によって、一瞬のうちに収束して、粒子として、確定されるのであり、この距離を量子が超光速で移動したことになるのである。しかし、これは、誤りである。不確定な量子とは、現象界の観測から考えられたものに過ぎず、実際は、確定した量子が存在しているのである。一瞬のうちに、超光速で移動するのではないのである。量子は、メディア界の事象として把捉しなくてはならない。
 イデア界をガウス平面として、X軸・実軸をイデア軸、Y軸・虚軸をメディア軸、それらに直交するZ軸を現象軸と作業仮説すると、メディア界は、Y軸―Z軸平面となるだろう。そして、この平面から、空間/時間4次元の現象界(仮象界)が発現(仮現)するのである。量子力学は、メディア界の量子の確定の事象を、現象界から観測して、不確定の事象として把捉するのである。つまり、現象軸Z軸の同一性構造によって、主客二元論の近代主義的自然科学が発生して、それは、共振イデアである量子を、物質化して、延長の時間・空間次元に置くのである。そのため、非局所性となった量子が、言わば、超光速で、粒子に収束することになるのである。換言すると、非局所性とは、もともと、メディア界の事象である量子・素粒子素粒子の方が的確であろうから、これから、素粒子とする)を、現象界・時間/空間4次元の視点からの観測から発生すると言えるだろう。現象界の観測から不確定となるに過ぎない。すると、ここで、非局所性の考え方が崩壊するのである。また、量子力学自体も、崩壊するだろう。素粒子を不可分時空間であるメディア界での事象と見る科学が必要となるのである。それは、メディア界的物理学である。イデア論的物理学である。
 ここで、光子について考えてみると、それは、本来、無限速度であろう。なぜなら、イデア界の事象であるし、また、時空間そのものであるからである。問題は、光速の問題である。相対性理論の問題である。直観で言うと、現象軸Z軸の同一性が、主客二元論的時空間=現象界を発現させるのであり、この同一性構造形式が、光速を発生させているのではないのか。つまり、現象軸の同一性構造形式が、素粒子・光子を測定して、光速度を観測しているのだろう。つまり、現象界=同一性構造の枠から素粒子・メディア界を観測すると、光速度一定という事態となるのだろう。つまり、光子は、もともと、無限速度である。というか、不可分時空間事象であるから、無時間・無空間である。だから、光子、素粒子を記述するには、メディア界の科学が必要であり、それは、虚軸であるY軸と現象軸であるZ軸との複素平面となるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異研究』の座標はそのように見ることができるだろう。また、ヌース理論のヌース界もそのように捉えることができるように思えるのである。
 考察をイデア界へと進展させると、そこは、完全なイデアの領域である。もはや、共振によるイデアのネットワークは存していない。ただ、「超越論的主観性」による「間主観性」があるのみである。不連続的差異であるイデア、不連続的イデアの共立空間があるのみである。それは、黒いイデアたちである。ここが、究極の世界・玄界・叡知界である。このイデア界・ガウス平面における不連続な黒いイデアたちの永遠回帰がここにはあるだけである。「至高天」である。双対的生成消滅が反復されるのである。地球や宇宙を生成消滅させるのである。ゲーテの『ファウスト』の「母の国」であり、折口信夫の「常世」であり、ケルト神話の他界である。死者たちの住み処・冥界即ち浄土・天国である。ここでは、最後の審判はありえない。一神教はまがい物である。ただただ、永劫回帰である。絶対的永劫回帰である。ここでは、無数・無限の自我たちが存するのである。無数・無限の「わたし」たちが存するのである。そして、おそらく、「対話」していているのである。ポリフォニー的に対話しているのである。これこし、コスモスの音楽であろう。モーツァルトの音楽であろう。円空のいう「法の御音」であろう。D.H.ロレンスが、「馬で去った女」で表現したコスモスの妙音であろう。コズミック・ハーモニーである。
 では、これは、メディア界の音ではないのかという疑問が起こるだろう。確かに、メディア界の共振するイデアの音楽があるだろう。しかし、これは、純粋な音楽ではないだろう。つまり、不連続的イデアが、ここでは、その純粋性を喪失して、いわば、協和音となっているからである。ゼロ化によって、共振的連続化が生起して、イデアは、言わば、不純になっているのである。だから、メディア界の音楽とは、濁った音楽であると言えよう。
 ここで、禅の瞑想について言うと、それは、イデア界へと心身を回帰させることだろう。つまり、空(くう)とは、イデア界のことである。しかし、大乗仏教の問題は、メディア界的矛盾同一とイデア界的絶対的差異の共立性とを混同していると考えられる点である。ちょうど、ドゥルーズ哲学の問題点と重なると言えよう。
 結局、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教である。つまり、ポスト西洋文明、ポスト東洋文明であり、新世界文明の誕生である。