潜在意識と自我意識:人間の二重意識性

潜在意識と自我意識:人間の二重意識性


私は、人間観察して、人が他者を批評をしているのを見て、他者よりは、それがその人にぴったり当たる場合を何度も見てきた。その時は、自分のことを他者に投影していると、いちおう、説明して見るのであるが、投影でいいのであろうか。投影ならば、どういう、反射力学になっているのだろうか。それを、ここで、考えたい。
 直観で言えば、潜在意識が、当人の自我意識を認識しているのである。そして、前者の叡知を、後者は、他者に投影するのである。これは、思うに、他者認識において、反感を感じている場合であるが、その反感とは、実は、潜在意識に対する自我意識の反感のことだと思う。つまり、他者から受けた反感とは、自身の反感を引き起こすのである。そして、この自分自身の反感を潜在意識は認識して、それを、自我意識が知覚するのである。つまり、潜在意識は、自我意識を認識しているのである。潜在意識は、自我意識よりはるかに賢いのである。
 では、潜在意識とは何だろうか。精神分析の無意識ではありえない。叡知としての潜在意識なのだから。それは、不連続的差異論のメディア界だと思うのである。ここは、差異が共振している。差異1「即非」差異2である。即ち、差異1は差異2ありつつ、差異1は差異2とは分離したものであるという、矛盾同一の様相にあるのである。この即非が、潜在意識になるのだと思うのである。自己(差異)でありつつ、他者(別の差異)と一致するのである。つまり、差異は、同一性の自我を即非的に認識しているのである。なぜなら、同一性は差異を否定しているが、この差異は、排除されて隠蔽しているのである。この被隠蔽が、潜在ということである。否定された差異は、潜在し、潜在意識となっているのである。そう、潜在知性、潜在叡知性と呼ぶべきだろう。この潜在知性が、同一性自我の様態を認識しているのである。そして、この潜在知性を、同一性自我は、知らず取り上げて、他者へと「投影」するのであろう。潜在知性は洞察力をもっているのであり、同一性自我は愚鈍である。この二重性が人間にはあるのである。このことは、D.H.ロレンスの『古典アメリカ文学研究』において、十全に展開されていると考えられるのである。「意識」の主張にだまされないで、「無意識」の真実を把捉しなくてはならないとロレンスは述べているのである。この潜在意識とは、メディア界の意識、メディア界の心身意識である。
 さて、ここで、考察を展開してみると、潜在意識=差異意識=差異知性と自我意識=同一性意識=同一性知性の二重性があるのであり、この二重性は、これまで述べてきて、メディア/現象境界に存すると考えられるのである。ここで、同一性的統一化するのが、弁証法である。