カント哲学について:アンチノミーと対極相補性:カント哲学→ヘーゲ

カント哲学について:アンチノミーと対極相補性:カント哲学→ヘーゲルマルクス弁証法


カントの超越論的形式とは、不連続的差異論から見ると、同一性構造のことだろう。同一性構造には、感性形式もあれば、「悟性」(言語知性)形式もある。同一性が差異を抑圧して、同一性の時間・空間を形成するのだろう。
 ならば、純粋理性やその批判とは何か。物自体とされる純粋理念とは何か。不連続的差異論では、物自体とは、端的に、差異のことである。差異は、同一性構造からは不可視である。例えば、カントは、自由と必然という純粋理性のアンチノミー(二律背反)を説いた。しかし、差異を考えると、メディア界において、差異1「即非」差異2(差異1☯差異2)であるから、まったく不定であり、ただ、ゼロ度の強度として、光速度一定があるだけであろう。(光速度とは、時空間ゼロ強度を意味するのではないだろうか。)思うに、ここでは、差異の自由と差異の必然(共振)が、共立しているのだろう。矛盾共立である。カントは、アンチノミーと言ったが、ここでは、「アンチノミー」が合理性なのである。粒子と波動の共立合理性なのである。
 因みに、非局所性の問題であるが、それは、現象界の時空間概念をメディア界に持ち込んでいる間違った考え方ではないだろうか。メディア界は、時空一如、時空不可分の世界だろう。ここでは、現象界の空間概念は通用しないのである。メディア界の「存在」とは、時空存在である。時空未分化存在である。
 ということで、カントの純粋理性批判とは、誤謬であろう。なぜなら、二律背反という同一性構造・現象界の論理をカントは、メディア界に適用していると考えられる。カテゴリー・エラーだろう。つまり、メディア界においては、対極・両極・極性論理があるのである。陰陽論理である。対極相補論理である。そのように見ると、純粋理性という考え方自体に問題があるのではないだろうか。自由や必然、無限や有限、これは、結局、同一性の処理が入っているのではないか。つまり、先に述べたメディア/現象境界、即ち、弁証法構造においてカントは考えて、純粋理性という観念を取り出しているのではないだろうか。つまり、差異を同一性構造ないし同一性論理の範疇で考えているのである。対極性を同一性で捉えているのである。だから、矛盾・アンチノミーになるのである。これは、ヘーゲルマルクス弁証法と等価である。カントこそ、人類の最大の災厄であるマルクス主義の父である。カント/ヘーゲルマルクス主義である。そう、唯物論者の柄谷行人氏が、カント/マルクス主義に帰結したのも、むべなるかな。