自我における差異と同一性の関係について:デカルト的自我と近代的自

自我における差異と同一性の関係について:デカルト的自我と近代的自我の区別


先に、デカルトのコギトは、特異性的同一性自我であると言った。そして、近代的自我も同様であることを言った。しかし、それでは、混同で誤りである。両者の違いを明快にしないといけない。
 ここでも、直観から論考しよう。特異性とは、どこから発するのか。それは、心身からである。単に、知性からではないし、また、身体からでもない。ならば、それは、メディア界からである。そして、メディア界は、イデア界に接しているから、特異性は、心身=メディア界(→イデア界)に根差している。すると、デカルトのコギト(我思う)は、メディア界(→イデア界)と同一性自我との結合に存していることになる。しかし、デカルト自身は、ゆらぎを排除しているので、メディア界が否定されるようにして、イデア界と接しているのである。いわば、絶対的自我がここに誕生したと言えるだろう。
 では、近代的自我はどうなのか。近代的自我は、メディア/現象境界における弁証法構造において、成立するだろう。即ち、差異1・同一性・差異2(差異1=同一性=差異2)の力学構造があり、差異を否定・排除するようにして、同一性自我=近代的自我は成立する。しかし、意識は、本来、差異の志向性にあるのである。即ち、差異→の→が意識である。しかし、メディア/現象境界における弁証法において、同一性が支配するが、このとき、差異意識はどうなるのか。あるいは、同一性意識はどう形成されるのか。メディア界においては、意識は、対極性意識(「即非」意識)である。それが、弁証法構造においては、対極的共立性が否定されて、二項対立・二律背反的意識に転ずる。差異は、同一性化されて、いわば、同一性差異となるのである。これが、近代的自我である。
 さて、この同一性差異である近代的自我とデカルトのコギトとの比較考量である。一見似ているが、似て非なるものである。つまり、前者は、同一性となった差異としての自我であり、後者は、特異性を保持しての、同一性自我であるからである。前者は、メディア界的意識を否定排除する、反動的自我であるが、後者は、メディア界的意識をもちつつも、それを懐疑主義で、いわば、保留するように制御して、根源のイデア界性=特異性を保持した上で、形成される同一性自我である。
 デカルトは、厳密には、メディア界を排除せず、メディア界懐疑的保留を行い、イデア界的特異性を保持した同一性自我である近代主客二元論を形成したのである。デカルト合理主義であり、これを近代的合理主義と考えるのは誤りである。
 思うに、デカルトが、松果体に精神と身体との結節点を見ようとしたのは、デカルト自身に、メディア界の心身対極性が存していたからだと推測できるのである。デカルト哲学は、いわば、メディア界とイデア界・現象界の独特の捩れ的接合をもったものであり、単純な近代主義ではありえないのである。
 因みに、スピノザは、このデカルト哲学の潜在性を汲み取って、心身平行論の哲学を立てたと言えよう。つまり、先にも述べたが、メディア界の哲学を構築したのである。