光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモス

光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平


「 同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチはチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。
 私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学ジェームズ・ギブソンアフォーダンス理論に近いものがあります。」
2006-05-10 イタリアにおける「大ラファエロ展」、その現代的意味を考える』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060510/p1
toxandriaの日記



「私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。」とtoxandria氏は述べている。この「線」とは、何だろうか。つまり、不連続的差異論から、理論的に分析したら、何であろうかということである。
 ここで、メディア界を考えてみると、それは、差異と差異とが、共振して連結して、量子・素粒子が形成されている場である。その共振は、不連続な、多重・多層の共振である。この多重共振事象が、現象の、いわば、内在的裏面である。そして、これに対して、同一性の知覚(自我)が、「線」や「輪郭」を与えているのではないだろうか。「光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすること」ということであるが、「一くくりにグルーピングすること」が、同一性の知覚に当たるだろう。同一性が「線」や「輪郭」であろう。
 では、メディア界的極性的多重多層の差異(=量子)を、個別の同一性=「線」・「輪郭」にする「力」は何であろうか。メディア界の共振する差異の多層多相(模様)性を、ある「線」、ある「輪郭」に変換する「力」とは何か。これは、また、実に、量子力学の問題である。非局所性の問題である。
 ここで、私は、ウィリアム・ブレイク箴言を想起するのである。即ち、理性とはエネルギーの周囲(円周)circumferenceであるという箴言である。エネルギーは、メディア界の共振差異と見ることができる。エネルギーの周囲(円周)とは、エネルギーの末端と考えることができるから、これを、境界無である現象界ないし現象界の「線」・「輪郭」と考えることができるのではないだろうか。そうならば、同一性である「線」・「輪郭」とは、メディア界の共振差異=エネルギーの振動的形態ではないだろうか。それは、光の形態ということではないだろうか。ここでは、作業仮説とするが、同一性とは光のことではないだろうか。メディア界に多重・多層な共振差異=量子・素粒子があるが、これが、同一性化されるとき、光を発生させる現象体となるのではないか。これが、E=mc^2のことではないのか。同一性とは光なのではないか。光が、いわば、闇である差異、共振差異を有形化(線化・輪郭化)するのではないのか。また、アインシュタイン光速度一定も、同一性ということだろう。
 もし、そうならば、光速度一定とは、現象界にのみ当てはまることであり、メディア界には当てはまらないだろう。そこは、時間・空間不可分・未分化一体の超時空間であるからだ。速度という概念が当てはまらなくなる。強いて言えば、無限速度である。超光速である。現象界を光の世界、メディア界を闇の世界とすれば、光の世界とは、闇の世界の同一性化である「周囲」・「円周」であるが、問題はエネルギーである。メディア界の共振差異は、確かに、エネルギーであるが、それは、E=mc^2でのみ考えられるべきものなのだろうか。これは、いわば、同一性・現象化されたエネルギーではないのか。同一性=光化されたエネルギーではないのか。その背後・裏面には、暗いエネルギーがあるのではないのか。つまり、メディア界の原エネルギーである。こういうことではないだろうか。メディア界の量子・素粒子の原エネルギーがあるが、それが同一性=光化されて現象界の「物質」を形成する。即ち、同一性=光化された現象を、人間は知覚認識して、自然科学を構築しているのであるが、しかし、それは、原エネルギーをもつメディア界の同一性=光化の面に過ぎないと考えられよう。つまり、原エネルギーの光面=一面しか観察・観測していないと考えられるのである。謂わば、光エネルギーだけであり、闇のエネルギーを看過しているのである。これが、ダークエネルギーの問題ではないだろうか。また、標準理論が破綻したことに関係するのではないだろうか。現代物理学、量子力学は、量子・素粒子の世界であるメディア界を、同一性=光化の現象界の視点から把捉しようとしているのであるから、壁にぶつかっているのではないだろうか。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界即ち、弁証法構造から、メディア界を見ていると考えられるのである。即ち、カント的なのである。
 そうならば、E=mc^2は、書き直されなくてはならないのではないだろうか。それは、現象界の公式であるから。今は、疑問の提起に留めることにして、本稿では、メディア・エネルギー(原エネルギー)の「周囲」(「円周」)として、現象界の「線」・「輪郭」を考えたこととしよう。また、D.H.ロレンスの言を想起すれば、黒い太陽とは、メディア界であり、また、太陽はわれわれに背中を向けているという言の太陽も、黒い太陽であり、メディア界の原エネルギーであると言えるだろう。また、『死んだ男』の闇の宇宙の薔薇も、メディア界を指しているということになる。そして、当然、ロレンスの言うコスモスもメディア界である。また、ここで、プラトンに言及すれば、洞窟の外の太陽(善のイデア)も、メディア界であり、また、コーラもメディア界であろう。デミウルゴス(創造神)とは、弁証法構造であろう。光の文明である西洋文明の限界が今や露呈されたと言えよう。新しい闇の「文明」が始まるのだろう。それは、新コスモス文明である。そう、文化である。新コスモス文化である。
 とまれ、量子力学を考えると、どうなるのだろうか。それは、相対性理論量子力学から脱して、メディア界的量子力学となるだろう。ポスト・モダン量子力学となるだろう。つまり、不連続的差異論的量子力学、不連続的《差異イデア》論的量子力学である。そう、真の宇宙は、共振差異螺旋的玄宇宙=玄牝だろう。この宇宙・母宇宙が、神話では、イシス/オシリス神話等として、表現されたのだろう。イシスは、メディア界であり、オシリスは太陽である。そして、このオシリス=太陽が独立したのが、父権制の太陽である。つまり、英雄である男性の太陽神である。父権神話の太陽である。『ギルガメシュ叙事詩』のシャマシュであり、その他である。そして、キリストは、この面をもっているのである。そう、イエス・キリストの二面性があるのである。一つは、オシリスであり、一つは、父権制の太陽神である。
 さて、不連続的差異論が創造発見されるまで、認識は、メディア界(心身不可分性)と現象界(心身二元性)に分裂していたと言える。しかし、不連続的差異の存するイデア界を明確に提起したことにより、現象界からメディア界へと進展する地平が出現したと言えるのである。