ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性

ゾロアスター教一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性


キリスト教は、ヨハネの黙示録において、ゾロアスター教の影響を受けていると考えられている。後者は、光・《善》であるアフラ・マズダと闇・《悪》であるアンリ・マンユとの闘争史を予言的に説くのである。そして、これが、前者の最後の審判のヴィジョンの基盤となっているということである。
 先に、『光の彼方へ:・・・』(以下、『光の彼方へ』)http://ameblo.jp/renshi/entry-10012425552.html
の論考において、同一性の光と差異の闇というレベルの違いを明確に提示した。西洋文明は、前者をいわば「理性」にしてきたのであり、後者を「非合理」として、否定・排除してきたのである。いわゆるロゴス中心主義である「理性」の問題は少し複雑であるが、同一性の光を、とりわけ、近代的合理主義(近代科学・近代的自我)では、「理性」としたと言えよう。後で、「理性」の問題を詳しく考察する予定であるので、ここでは、同一性の光が「理性」とされたとして、論考を進めよう。
 不連続的差異論から見ると、キリスト教ヤハウェは、同一性の光の神である。あるいは、メディア/現象境界の弁証法構造の神である。これは、プラトンデミウルゴス(創造神)にほぼ相当すると考えられるのである。そして、グノーシス主義は、これを邪悪な創造神と考えたのである。
 とまれ、ゾロアスター教に戻ると、ここでの光と闇が、そのまま、キリスト教や西洋文明の同一性の光と差異の闇となったと見ていいのだろうか。私は、以前から、そうではないと直感してきたし、そのように論じてきた。即ち、ゾロアスター教の光・善は、差異の闇であり、その闇・悪は同一性の光だと思われるのである。私の直観はそのように告げるのである。何故だろう。それは、その光・善が火・火焔だからではないだろうか。つまり、根源的エネルギーを感じさせるからである。拝火教とも呼ばれたのであり、火を聖なるものと見たのである。火と光では、ニュアンスが異なるのである。火は古いものを焼尽するものであり、新たなものを産む契機となる。不死鳥・フェニックスの神話に通じるだろう。しかし、光は、白光は、それとは異なり、視覚的な輪郭・線の形成を感じさせるのである。極言すれば、両者、まったく別個のものである。
 ということから、ゾロアスター教の善・光・火とは、不連続的差異論のメディア界のエネルギーであり、悪・闇とは、同一性の光だと思うのである。即ち、ゾロアスター教キリスト教ユダヤ教も含めて)は、価値観が逆転しているということである。ならば、ゾロアスター教一神教性はどう説明するのかということになるが、それは、思うに、メディア界⇒メディア/現象境界の⇒の領域において、ゾロアスター教が発生して、差異が同一性の様相を得たために、一神教となったと考えられるのである。それに対して、ユダヤキリスト教は、メディア/現象界⇒現象界の⇒が一神教となったと思われるのである。(また、これまで述べたことから考えると、イスラーム教の一神教ゾロアスター教に同類ではないかと思われるのである。しかし、前者は、メディア/現象界⇒メディア界の⇒ではないだろうか。だから、タウヒード【一性の思想】は、個体性・差異の原理を含むと考えられよう。また、今村仁司氏は、イスラーム教とスピノザ哲学の類似性を指摘していたが、スピノザ哲学は、メディア界の哲学と考えられるので、それは、考えられることである。不連続的差異論を導入すれば、イスラーム教は、不連続的イスラーム教となり、真にイデア界のイスラーム教となるだろう。)

 さて、ここで、「理性」の問題を考えよう。西洋は、同一性の光を「理性」としてきたと上述したが、正確に言えば、二つの理性があるのである。そして、近代において、これが混同されて、同一性の光だけが、理性とされたのである。啓蒙主義ロマン主義の問題でもあるのだが。中世において、いわゆる、信仰と理性の調和が問題とされた。トマス・アクゥイナスが、代表である。そして、ギリシアの教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と考えたのである。そう、当然ながら、ヨハネ福音書は、「初めにロゴスありき」と冒頭にあるのである。このロゴスが問題なのである。このロゴスが、理性と同一視されたわけである。つまり、西洋において、伝統的には、形而上学的な理性(ロゴス)と地上的な理性(同一性の光)とがあったのであるが、これが、近代革命によって、自我の理性に収斂したのである。つまり、形而上学的理性は、同一性の理性に吸収されたのである。ロゴスは、言葉となったのである。言葉こそ、同一性の媒体(メディア)である。即ち、欽定聖書やルター訳聖書では、ヨハネ福音書は、「初めに、言葉ありき」と訳されたのであり、ロゴスが言葉に還元されたのである。近代主義が、理性を同一性の光に限定したと言えるのである。しかし、先に論述したように、デカルトのコギト主義は、それとは異なるのである。コギトの理性は、ロゴスと同一性言語が重なっているのである。それは、イデアと同一性理性が重なっているとほぼ言えるだろう。
 カントは、メディア/現象境界の弁証法構造から、純粋理性批判を行い、ロゴス/イデアと同一性を混同したという大錯誤を犯した。それに対して、ニーチェは、同一性を、自身の単独的存在性から、すべて破壊したのである。そして、フッサール現象学は、カントによって奪われたロゴス/イデアの探究を行い、志向性・ノエシスノエマの大発見を行ったのである。そして、相対性理論は、同一性の光を基礎として、時空の相対性を発見した。それは、同一性の観点からのメディア界の取り込みであると考えられる。さらに量子力学は、メディア界の事象を対象として、相補性という概念を発見したのである。しかし、現象界の同一性の概念をまだへその緒のようにもっているのが限界であると考えられる。
 そして、フランス・ポスト・モダン運動が起こる。これは、同一性の理性に対する批判、即ち、メディア界による同一性の理性への批判であると言えるだろう。これは、文化史的に見ると、ロマン主義象徴主義を哲学的に展開したもののように思えて、理論的には、独創性は乏しいと思われるのである。それは、ニーチェフッサールの真の独創性とメディア界の論理を整合化することができなかったのであり、それが、欠陥であった。そして、不連続的差異論がこれを実現したと考えられるのである。それは、三つの理性を提示したことになるだろう。イデア界の理性/メディア界の理性/現象界の理性である。簡単に、イデア理性/メディア理性/現象理性と呼べよう。あるいは、イデア知性/メディア知性/現象知性としてもいい。特異性/対極性/同一性と見ることもできるだろう。あるいは、不連続性/不連続・連続性/同一性と見ることができよう。
 世界は、グローバリゼーションにおいて、現象理性資本主義であったが、今や、多極化において、イデア理性のエポックになったと言えるだろう。ポスト・モダンはメディア理性であったが、それは、現象理性と完全には、切断されてはいなかった。そのため、大澤真幸氏のアイロニカルな没入が発生したと言えるだろう。市場はメディア界と考えられるから、新自由主義は、メディア/現象境界に属すだろう。そう、多極化とは、差異の共立であり、メディア界的である。しかし、このためには、イデア理性に達する必要があるのである。それは、現象学的還元である。判断のエポケー(停止)である。不連続的差異=イデアへと根源回帰する必要があるのである。これによって、現象理性との癒着から切断されるのである。多様な、多元的な不連続的差異を思考し、共立させる発想が現代・未来的なのである。