キリスト教問題:罪の赦しとは何か

私は、昔、キリスト教が一番の問題であると考えていた。ダ・ヴィンチ・コードで、問題が復活しているようだ。
 私の立場は、脱キリスト教であるが、この場合のキリスト教とは何か。キリスト教会で行われた葬儀の真面目さには感銘を受けた。葬式仏教のずさんさは、何をか言わん。そう、キリスト教を問題にするとき、個別の人は度外視して、考えたい。つまり、個々の信仰は、基本的には肯定する立場である。
 不連続的差異論から見ると、イエス・キリストとは、現象化の極限の面をもつと思われるのである。ヤハウェは、弁証法構造であるが、そこから、同一性化が徹底されたのが、イエス・キリストと見ることができるように思うのである。思うに、イエス・キリストは、現象化の極限であるから、同時に、転換点である。自我中心主義の極点であり、同時に、ポスト自我中心主義の始点ではないだろうか。ここで、聖霊の問題があるのである。つまり、絶対的自我に達したイエス・キリスト(神人)は、傲慢の極致にあり、そこからは、脱現象化作用としての聖霊が意味をもつと考えられるのである。つまり、キリスト教は、終焉するのが正しいのであり、聖霊教ないし、聖霊叡知となるべきなのである。グノーシス的イエス主義とも言えよう。かつて、この問題にずいぶん拘った。聖霊教が生まれるだろう。参照:http://ameblo.jp/renshi/entry-10002164656.html
 では、罪の赦しはどうなるのだろうか。ここに一つのポイントがあるだろう。やはり、罪の赦しは、一種同一性であり、差異ではないと思うのである。例えば、私に害を与えた人間に私は、復讐心をもつと同時に、また、同時に、赦しているかもしれない。復讐と赦しが併存していると思うのである。だから、罪の赦しという教義は、立派であるが、やはり、同一性の教義だと思われるのである。聖霊は、メディア界の事象であるから、矛盾が対極的に共立するのであるから、罪の赦しと復讐が共立するというのは正しいと思うのである。やはり、ポストキリスト教としての聖霊教ではないだろうか。D.H.ロレンス的宇宙教と言ってもいいだろう。この点では、ロレンスは、誰よりも、ラディカルであると思うのである。


p.s. メディア界は、差異共振の世界だから、ある意味で、罪の赦しは成立しているのかもしれない。しかし、罪の赦しとは、不正の擁護ではないのか。思うに、メディア界に受けた傷(言わば、外傷・トラウマ)は、事象として、残ると思うのである。それを、赦すというのは、事象に対する不誠実ではないのか。存するものは、存するものである。それを解消するのではなくて、それに耐えることが、差異的ではないだろうか。確かに、メディア界には、共感性があり、一種赦しがある。しかし、同時に、外傷・トラウマが事象として、存するのだから、それを否定するのは、反科学的である。トラウマを赦すとはどういうことなのか。それは、赦せないからトラウマではないのか。
 罪の赦しは、観念論だと思う。それは、偽善の一種だと思う。後で、できれば、もう少し考えたい。