イマジネーション知性へ向けて:イマジネーションと知性の結婚:同一

イマジネーション知性へ向けて:イマジネーションと知性の結婚:同一性を包摂する不連続的差異・真実在


啓蒙主義ロマン主義(・象徴主義)の問題、即ち、理性と感性の対立の問題であるが、これは、英米文学モダニズムにおいては、古典主義的回帰で、反動化して、問題から逸れてしまったと思う。
 この啓蒙主義ロマン主義問題は、知性とイマジネーションとの結婚ということで解決できると思うのである。これを、不連続的差異論が可能にすると考えられる。なぜなら、近代ないしポスト近代の《精神》とは、差異と同一性の分裂、即ち、差異の心身性(感性、イマジネーション、ヴィジョン等)と同一性の言語知性との分裂があり、これを、不連続的差異であるイデア界を仮説することで、統一できると考えられるからである。つまり、不連続的差異の仮説によって、差異を現象界の同一性(同一性自我)から切断して、差異を差異として、同一性から独立させることができるのであり、このとき、不連続的差異に対応した不連続的差異的知性が生起するのである。言い換えると、それまでは、差異は、知性というよりは、心身性、感性、「身体」であった。即ち、「非合理」なもの(ロマン主義神秘主義象徴主義)であったのである。そして、その「非合理」な差異と同一性の近代科学(唯物論的科学知性)の知性とが分裂・矛盾していたのである(これは、おなじみの図式であるが)。また、フランス・ポスト・モダンにおいては、差異の理論化への明確な知的営為があった。(これは、フランス・ポスト・モダンの偉大な功績である。)しかし、それは、絶対的差異である不連続的差異と連続的差異とを理論的に峻別しなかったので、ブレークスルーまでには達しなかったと考えられるのである。即ち、差異が、同一性から完全に脱却できなかったのである。これは、ドゥルーズの差異哲学にはっきりと確認できることである。差異=微分積分として、現象界(連続・同一性)を把捉したことに見られるのである。
 といういうことで、フランス・ポスト・モダンは、近代主義の矛盾から差異の理論への不十分な出発であったのである。
 結局、不連続的差異論によって、不連続的差異の知性が形成されたのであり、これにより、感性・心身(差異)と言語知性が統一されたと考えられるのである。即ち、イマジネーションと知性が結合・「結婚」したと考えられるのである。
 さて、問題は、この統一において、同一性はどうなったのかということである。先に三つの理性ということを言ったが、差異と知性の統一とは、現象界的同一性を包摂していると言えるだろう。確かに、知覚できる物は物であり、同一性である。もっとも、三重の知覚がここにはあるだろう。不連続的差異としての対象、対極的な対象、そして、現象界的な対象への知覚である。ということで、同一性は、差異に包摂されたのである。超越論的高次元の差異に、現象界の同一性は包摂されたのである。ここで、ウィリアム・ブレイク箴言を想起する。即ち、身体は、魂の一部であり、五感によって知覚されているものであるという内容のものである。即ち、身体を現象界の同一性とすれば、それは、超越論的高次元的差異の一部分であるということになるだろう。私たちが見ている、知覚しているこの世界・現象界は、超越論的高次元的差異の世界の一部に過ぎないということである。この光の世界は、真実在のほんの一部に過ぎないということである。真実在の先端の光の相(phenomena)を見ているに過ぎないのである。真実在の高次元多重多層界を喪失している「無明」にあるのである。